サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ブラックフライデー
note.com/toba_torakitsune
高1の子が、不規則な生活は時間を考えないということだから安心する、規則的な生活は時間を意識させられるということだからそれだけで辛いと言う。なんで辛いのとさらに尋ねたら、時間を意識することは、自分に対する意識が鋭くなるから、それが辛いと言っていた。なぜ人が不規則な生活に陥りやすいかといえば、それは自分を意識しなくてすむから(自堕落とはそういうことだ)というのはなるほどと思った。自堕落であることで保たれる生がある。(2024.4.8) 高校生たちが、あらゆる職業を一言で表す遊びをやっていて、学校の先生を「愛情と自己顕示の狭間」、YouTuber「病的な寂しがり屋」って言ってて面白かった。パイロットは「人生の平均高度が高い人」だった。(2025.9.15) 高2の子が、毎日地下鉄内で大人たちがパズドラをしながら通勤してるのを見ていたら、人生ってほんと意味とかないんじゃないかなと思うようになったと
昨今の差別的な言動は、単なる無知や悪意の表れではない(その点を左派は過小評価している)。それはしばしば、社会構造の中で理不尽にも不利な立場に置かれた人が、自らの苦しみや怒りを可視化するための「回路」として機能している。トランプや参政党のようなポピュリスト政治家たちは、この回路を直感的に理解し、あえて差別的な言説を用いることで、鬱積した感情の風通しをよくしている。人々は彼らを通じて不満を正論として語り直す機会を得るが、その過程でわかりやすい敵を与えられ、怒りは排除の快楽へと変換されていく。それは一見、解放のように見えて、じつは感情の回路を囲い込み、政治的支配へと変える巧妙な戦略である。 一方、差別に反対する側が示す「道徳的な余裕」には、失うものの少なさに由来する無自覚な鈍感さがにじむため、その語りは相手を逆撫でする。差別を否定する人々が、差別に加担する人々を実質的に「見下している(つまり劣悪
学生時代を遥か昔に通り抜け、中年と呼ばれる年齢になった大人たちが、「勉強」という言葉の中身を学生の頃のイメージのままに温存していることに驚くことがある。 先日、子どもが勉強に興味を示さない悩みを抱える中学生の母親から相談を受けた。私は、親が日常的に自ら勉強する姿を見せることが効果的ではないかと答えた。すると、母親は「私も実は〇〇の資格の勉強をしている最中なので、頑張っている姿を見せれば、うちの子も少しはやる気が出るかもしれませんね」と話した。 この母親は何か間違いを犯しているわけではない。親の努力が子どもに刺激を与え、勉強へのモチベーションを高める可能性は十分にある。しかし、このとき私が伝えたかった「勉強」のニュアンスは母親にまったく伝わっていないことに気づいた。そして、この「伝わらなさ」の中身が、日本社会全体のある傾向を反映しているように感じられた。 日本では大人になっても「勉強」観をア
人が反省してるときって、単に他人の反省しろ落ち込め不幸になれという自分に向けられている(と想定される)負の欲望を内面化してそれに準じようとしてるだけで、自身の手持ちの感情ではないことが多い。だから反省には卑屈さと自己憐憫が付き物。手放したほうがいい。(2022.12.7) さかんに反省したがる人がいるが、その実は「卑屈になってもこの身勝手な欲望を認められたい」という思いの発露であることが多い。反省しているときには、反省したがっている自分に気づくのがとても大事。(2022.11.8) 本を読んだり人の話を聞いたりしたときに自罰的に反省する所作って一種の幼さの現れなので、私の本を読んで反省している人たちを見ると、読んでくださってありがとうございますと思う反面、複雑な気持ちになる。 自分に落とし込んで考え続けることで思考の位相が変わる、その結果、別の現実が現れる(顕わになる)というのでしかないの
昨日、「うちの親、死ねばいいのにー」と大きな声で言ってる中学男子がいて、そしたら、となりの別の男子が、「死ねばっ、ネバ、ネバ ♪」と歌い出して、最終的に、2人で「死ね ♪」「ネバ (never) ♪」という掛け合いになって面白かった。 — 鳥羽和久 KAZUHISA TOBA (@tobatoppers) February 4, 2019 随分前にこのツイートをしたのだが、その数日後に教室の前で会ったあるお母さんから、「先生、うちの親、死ねばいいのに、とか書かない方がいいですよ。どの親が見ているかわかりませんから」と言われ、どの親というかあなたですよね、と思いながらその場では何も言えず、その後しばらくモヤモヤとした気持ちを抱え続けた。
1 昨日の夕方に、ある新聞社から取材を受けたが、その際に「子供を分析しすぎるのはよくない」という話をした。 発達障害の子供が劇的に増えたことからも明らかなように、平成、令和の間に変化したのは、どちらかというと子供ではなく、子供に対する見立ての方である。今の子供たちは大人に分析されすぎていて、それが「配慮」という新しい管理の口実になっている。どんな子供かわからないままに、勝手に遊ばせておくという当たり前のことがそうではなくなっているのは、大変なことだと思う。 今の時代は、とにかく偶然的な未来を嫌う。イレギュラーは混乱のもとなので、前もって整えておくのがやさしさだと言われる。しかし、これは諸刃の剣である。既に配慮しているんだから、あなたの方もこっちが不快にならないように配慮して、という目に見えない外圧が世間をすっかり覆っているのだ。私は、こういう趨勢で割りを食う人たちをマイノリティと呼びたい。
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『note.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く