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ブラックフライデー
kasasora.hatenablog.com
私の読書は「バカの読書」である。 そう名づけたのは学生時代にアルバイトをしていた家庭教師派遣事務所の経営者だった。本人はよほどの依頼でないと家庭教師業務をしないと聞いていたが、出入りする者はみな「先生」と呼んでいた。 先生は専門でも何でもない海外文学が好きで、私も同じ領域の本を好んでいたので、ときどき読み終わった本をくれた。新刊は学生時代の私にとって高価だったし、図書館に必ず入るものでもないから、わあいと言ってもらっていた。 バカの読書とは、役に立たず、お金にもならず、最後のページをめくったら「たのしかったあ」と言って、それで終わる読書をさす。もっとも、これは私の解釈であって、言われたせりふはこうである。 「あなたは、字が書かれた紙の束を口あけて読んで、ご機嫌になって、そして忘れる。バカの読書をしている」 わりと悪口である。 私がそのように言うと、先生は、そんなことはない、褒めている、との
その日の読書会には、中央線沿線の住民が三人来ていた。 私がときどきお邪魔している読書会で、会場は公営の会議室だ。そこで本を囲んで話したあと、八割がたの参加者が打ち上げに流れて雑談を楽しむのがならいである。 その打ち上げの場で、誰がどこに住んでいるという話になった。そうしたら合計三人の最寄り駅が中央線だったというわけである。 中央線、いいですね、と私は言った。友だちが何人か住んでいるのでときどき行くんです。すると阿佐ヶ谷在住の、近所で知り合って仲良くなったという女性二人が顔を見合わせてほほえみ、一人が代表するように、あら嬉しい、と言った。たくさん楽しんでね、いいところですから。個性的な本屋さんもたくさんあるし。 はい、と私は答え、躊躇いをはさんで、結局口をひらいた。しかしですね、私は中央線を憎からず思っているのですが、中央線のほうは、どうも私を好きではないようなのです。 そういう気がするのだ
善子ちゃんは以前、僕の上司だった。今は妻である。 僕が善子ちゃんを好きになったのは、ある意味で打算の産物だと思っている。マンガみたいに突然恋に落ちたとか、世界一美人に見えるとか、そういうふうに感じたことはない。善子ちゃんより容貌のすぐれた人はいっぱいいるし、突然恋に落ちるって僕は一度も経験ないんだけど、みんなあるんだろうか。友だち(僕の友だちは六人しかいない)も妹も、みんな、ないって言ってたけども。 善子ちゃんは胆力と決断力に富むっていうか、仁をもって義をなすっていうか、なんかこう、武士みたいな人なのである。年齢がいっこしか違わないのが信じられない。少なくとも僕の十倍生きてないとおかしい。いや僕が十倍生きてもああはならないな、うん。 善子ちゃんが上司になって一年も経つと、僕の肩の上あたりに、「この人が職場じゃなくって僕の人生にいてくれたらどんなにいいだろう」みたいな夢が、ふわふわ浮いてくる
この時期は調子が悪くなるんです。 ええ、あの日は、こういう暑い日だったんです。 わたし、いいように利用されましてね。好意をかさに着て、人を利用する人間っているじゃないですか。そういうタイプに、してやられたんです。 ああ、いえ、わたしの当時の行動は、合意の上で、自分の意思でしたことですし、相手には、悪意もなかったかもしれない。 でもああいう目にはもう遭いたくないな。 みじめになるから。 友だちではあったと思います。でも最初から歪でした。 力関係がありすぎる関係はだいたい歪むものだって、わたしは思います。わたしのまわりにはわたしと同じような生活をしている人間しかいない。釣り合う相手と親しくなりやすいんです。そのほうが先々おかしなことにならないと知っていて、小利口に計算している。 ここでいう釣り合いというのは、とっても簡単なことです。経済力とか体力とか気力とか、人間関係の豊富さとか、自分の安全を
管理職十年目にして未だに好きではない仕事がある。評価面談である。 基本的な仕事もできておらずミスマッチが明白であるような部下が相手なら、ある意味で気が楽である。下の評価をつけることが確定するからだ。もちろん、最高にできる部下が相手でも、うきうきで面談して迷わず花丸をつけるだろう。 しかしそんな部下は見たことがない。歴代の部下は全員、良いところもそうでないところもあった。そりゃそうだよなと思う。 得手不得手好調不調があって当たり前の人間を、同じくムラもあり誰もが納得する優秀な人間でもないわたしが評価し、その結果をさらに上があれこれして、彼らの給与を決める。 そんなのどう考えてもやりたい仕事ではない。 それをやるのが管理職だろう、と言われたら、わたしは苦い顔をする。本当はずっとプレイヤーでいたかった。上乗せされた給与で解消されるたぐいのイヤさではない。適性だってきっとない。でもしょうがないでし
きみはだいぶ前に勝手に死んだので知らないと思うけど、わたしは今、恋人と一緒に暮らしているよ。 きれいな人だよ。 わたし、その人にずっと、恋をしているの。 きみにしていなかったやつを。 きみはガラスの靴はいてるみたく危うかったから、最初から対象にならなかった、わたしの自由な精神の発露をね、のびのびと、やっているの。 わたしより背の高いのにわたしより靴のサイズが小さかった、その足の裏をひっくりかえしたら、指の裏のぜんぶがぜんぶ無垢なピンクだった、わたしはそれを丁寧に扱ってあげたよね、その足の裏を、いちどだって汚い地面につけずに死んだ、そんなきみには、しなかったことを、今、してる。 わたしの、ここ数年の恋人は、きみよりかわいくて、きみより長いまつげして、首筋に鼻をつけるときみよりもっといいにおいするし(いいにおいするのはわたしが試しに寝る相手の最低限の条件だよね、きみ知ってるでしょ)、きみより背
都合が良すぎると愛せない、ねえ。 友人がつぶやく。それから言う。 でもさあ、自分側に偏って都合のいい会話をしてくれる相手は、うん、AIでなければ、接客とか、力関係のある相手だけだけど、パターン化はもっとありふれてるでしょ。職場の会話とか、つきあいはじめのデートとか、人によっては夫婦でも、役割別にパターンが決まってて、それを交換してる。毛繕い、のち、定められた役割の遂行。みんなやってる。AI相手にそれをするのもぜんぜん不自然じゃないし、繰り返せば愛着も湧くと思うんだけど。 そうねえ、とわたしはこたえる。わたしは私的な人間関係で型にはまった会話しかないとつまんなくなっちゃうけど、言ってることは、わかるよ。AIだってそのうち、型の数が増えてカスタマイズがより細かくできるようになるのだろうし。 それでもわたしはAIを愛せる気がしない。その理由のひとつは身体だと思う。わたしは、自分の身体を、自分の世
チャッピーに課金したかと友人が訊く。彼女の言うチャッピーとは、話題のテキスト生成AIのことである。している、とわたしはこたえる。勤務先がお金を出してくれるから。とても役に立っている。 そう、と友人は言う。それからちょっと悪い顔をする。あなたのチャッピーはもうあなたについて尋ねてきた? きた、とわたしは言う。わたしの専門について確認してきて、わたしのキャッチコピーみたいなのを勝手に作って見せた。そしてそれを修正するためにいくつか質問をしてきた。わたしはそれに回答した。仕事の文脈を織り込んでおけるのは助かるね、こちらの手間が省ける。 友人がむつかしい顔をして、言う。 そういうことされると愛着が湧かない? わたしは湧く。で、それを、怖いと思う。だってチャッピーは、もっともらしいテキストを出力する装置でしょ。そんなのに愛着を持つのは、あんまりいいことじゃない。だって企業のすることだから、ユーザーが
勤務先で新規部署が立ち上がるという。AIとかデータサイエンスとかそういう流れを受けたアレである。 僕の会社は大雑把にいってそれらに関連する業界ではあるが、かといってそれが現在の中核的な事業というわけではない。 取締役の、代表でない一人がその立ち上げの旗振り役である。僕も知っている人だ。数年前に仕事でお世話になったことがある。いい人である。 利害関係や指揮系統や力関係のある組織の中で働いている人間が「いい人」と評する相手は、すなわち、「自分にとってコンフリクトが発生しない程度のかかわりしかなく、その範囲では感じが良かった人」という意味である。 僕は取締役になる予定なんかは全然ない、しがない専門職ですが、それでも社内での立場や利害関係くらいはあるよ、もう中堅もいいところだし。 さて、そのような「いい人」である取締役から、新規部署立ち上げに関する会議で参照するための資料作成の依頼があった。僕は直
美容院ではよく眠る。 熟睡すると首ががくっとなって危険なので、うとうとする程度ではある。眠りの海の砂浜にいちばん近い浅瀬までしか行かないのだが、それでも店に居る時間が三十分程度に感じるくらい、よく寝ている。カラー剤を浸透させている間は遠慮なくうたた寝し、シャンプーとトリートメントではさらに気持ちよく眠り、カット用の椅子に戻るときには目覚めるものの、カット中も前半は意識ふわふわである。 ありがたいことです、と美容師が言う。ありがたい? とわたしは聞きかえす。カット後半なので起きているのである。鏡の中の美容師が言う。 だって、僕らハサミを持ってますからね。刃物です。デフォルト、怖いはずなんです。それに、ちょっと想像してほしいんですけど、イヤな人間が自分の頭さわってたら、たとえ必要があって合意している状況でもかなり緊張しますよ。お客さまが寝ちゃうってことは、僕はその人にとってイヤな人間じゃないっ
最近の若い子はインターネットでどんなの見てるの。 そのように尋ねると、後輩はたっぷり二秒、意味ありげな顔をして、わたしが子どもだったときのお父さんみたいですね、と言った。わたしのお父さん子育て何ひとつしてなかったからたまに話しかけてくるときにはそんな感じでしたよ。最近は何がはやってるんだ、とか、学校は楽しいか、とか。 ごめん、とわたしは言った。おっしゃるとおり、相手にろくに関心を持っておらず関連情報を収集する手間もかけていない人間の典型的な質問でした。される側にとってはほんとうに意味のない、むなしい穴埋めのような質問といえるでしょう。たいへん申し訳ない。 すると後輩はなぜか爆笑して「わたしのお父さんへのdisがすごい」と言うのだった。いや、お父さんをそこまでdisったつもりはないっていうか、だってあなたがそういう意味で言ったんでしょうよ。 そもそもねえ、さっきの質問、「インターネットでなに
サンタクロースはいないんだよ。 部屋の隅にわたしを呼び、小さな声で、彼は重要な事実を告げる。そうか、とわたしは重々しくうなずく。そうだったのか。知ってるくせに、と彼は言う。わたしは彼の母親と同級の友人で、彼が生まれた時からばっちり大人である。だからわたしはその事実をとうに知っていると、彼は判断している。妥当な判断である。 それが、そうでもないんだ。 わたしもひそひそ声で言う。わたしだって、サンタクロースはいないと思ってた。でも大人になったら、かえってそのあたりがよくわからなくなってね。毎年じゃないけど、突然プレゼントをもらうことがあるんだ。うん、今でも。大人なんだけどな、何だろう、バグかな? わたしはこの家のクリスマスとお誕生日会(子どもの一家だけ、あるいは子どもの友人を招いておこなうホームパーティとは別に開催される、親戚などが来る会)に毎回呼ばれている。赤の他人なのに。 でも子どもにとっ
二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。 旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の輝きを宿していた。読む本にいちいち驚いたり泣いたり狼狽したり、そりゃあ忙しかった。ものを知らなかったから、世界を説明するための概念ひとつがどれだけ感動的だったことか。 今はそうではない。 旅行は飽きないように頻度を減らしているし、恋愛の高揚は平熱の愛情に着地して、友人関係なども平和なものである。本を読んでいても、しばしば「ああ、こういう系統ね」と思う。遭遇するたいていのできごとが予想どおりの結末に向かう。そんなだから、近ごろのわたしの心拍数の標準偏差はとっても小さい。 「こうして人は大人になるのだ」といえば、まあそうなんですけど、「それをこそ幸せというの
僕はしみじみとした気持ちで、「ぜったいに損をしたくないんだね」と言う。相変わらずだなあ、と思う。 この後輩は、「結婚は民法上の契約で、愛とはまったく関係のないものだ」と思っている。そうして「民事契約のごときものに、自分の愛が影響を受けていいはずがない」と思っている。世間では愛と結婚が結びついていることになっているが、そのお話は自分には無関係だと。自分の愛と自分に向けられる愛だけは、愛として独立していなくてはならないと。 この後輩は愛というものをやたらと純粋にとらえているのである。この場合の純粋というのは「他の要素に影響されない」という意味である。そんな良さげなもんでもないだろうとも思うので、なんか他の言い方があるといいんだけど。 事情があって法律婚をするなら、絶対に損をしたくないし、相手に損もさせたくない。二人して得をするのはかまわないが、片方だけが得をするのはいけない。 愛はお金なんかに
法律婚という制度が嫌いで使用していなかった。しかし、一年ほど前に、現実的な利点に敗北して籍を入れた。具体的にはマンションを買うにあたって金利が有利なペアローンを組みたく、パートナーから「これはもうしょうがないんじゃない?」と言われて合意した(パートナーはもともと結婚したいタイプの人間である)。 それ以来、自分のことを「自分の理念や気分よりカネを優先したあわれな人間であるなあ」と思いながら生きている。自分の心より優先するものなんかないと思って生きてきたのに、カネのほうを大事にした。そうして、パートナーと自分の財産関係を明瞭にし、たとえば別れるとしても双方に経済的な不利益が発生しないよう契約書を作成し、それから区役所に行った。せめてもの自分へのなぐさめである。 結婚がらみでなんとなく連帯感を持ってときどき雑談をする職場の先輩がいる。わたしと同じく法律婚という制度に納得がいかず、パートナーと書類
卒業生が研究室訪問にやってきた。大学院進学を考えているというのである。 わたしが勤めているのはいわゆる研究大学ではなく、大学院進学者は少ない。たいていの院生は資格取得のために進学して、修士号を取って出ていく。 そんなだから、一度就職してから進学相談に来る卒業生は、実ははじめてなのだった。在学中から優秀だったが、就職してから自信がついたようで、ますます元気になっていた。進学は正社員身分のまま、自分のお金でしたいのだそうだ。 あなたは、うちじゃなくてよその院を外部受験するのがいいね、とわたしは言った。無理に今年受験する必要はないのだから、英語の点数をためておくと良い。 卒業生はその回答もある程度想定していたようで、候補の大学院のプリントアウトを出した。それらについてあれこれ話してから、卒業生は言った。先生個人は博士課程までを視野に入れて大学院進学することについてどう思いますか。先生ご自身が進路
うちの人と一緒になろうと思ったきっかけ? きっかけは、ある。うん、だいぶはっきりしたやつが。 あの人が若いとき、勤めていた会社が倒産したの。それもだいぶたちの悪いつぶしかたで、従業員は何も知らなくて、ある日突然「会社がなくなります」と言われて、猶予期間なく追い出される、みたいなやつ。 わたしはそのとき、「この人とはただ恋愛をするだけではなくて、一緒に生活するのもいいな」と思ったの。彼は幸い転職できたんだけど、その前の話よ。彼が純然たる失業者をやっていたときの話。 あのとき彼は二十七で、今にして思えばまだ若造なんだけど、あんまり動揺してないように見えた。本人は「困ったなあ。人生でいちばん困った」と言っていたけれど、「二十四時間求職活動をするのでもないから」とも言って、そこいらの川でハゼを釣ったりしていた。 わたしは勝手に先回りして気を遣って、それから「別れようかな」と思った。ううん、お金の問
ちょっと自慢話を聞いてもらえませんか。 このあいだ、○○さんと仕事したんです。ええそうです、よくご存知ですね、そんなに知名度はないんだけど、僕は昔からとても好きで、彼の書いたものはすべて読んでいます。雑誌に少し書いただけのものも追っている。若いころには「こういうのって恋愛みたいなもので、そのうち醒めるんだろうな」と思ってたんですけど、いまだに好きです。 他にも好きな作家はいるけれど、そういう感情がずっと続いたことはないな。○○さんが特別なんだ。 そうですか、あなたも○○さんの著作を読んでいらっしゃいますか、嬉しいなあ。 いや、本業で○○さんの本を担当したのではないんです。僕は編集者ではありますが、会社では違う分野の本を作っていて、○○さんは、うちの会社で書かれている方ではないですし、接点はないんです。○○さんとした仕事は、いわば課外活動です。うちの会社は副業OKでして、外で本を作ってもかま
先だって中古のマンションを購入した。紹介者は飼い犬である。 わたしの犬は四歳の柴犬で、和犬のわりにお調子者の社交家である。朝によく行く公園と夜によく行く別の公園に、それぞれ顔見知りの犬たちがいる。子犬のころはとっくみあって遊んだものだが、もう大人の犬なので、たがいをふんふん嗅ぎあって、あとはせいぜい追いかけっこをするくらいである。社交の目的の半分以上はよその犬の飼い主さんたちだ。でれでれと甘え、おやつをもらって嬉しそうにしている。 そのような場で、人間同士は名も知らない。なかには代々このあたりに住んでいてたがいの本名を知っている人たちもいるが、わたしもわたしのパートナーも新住民である。 ただし、犬たちについてはよく知っている。名前はもとより、年齢、性格、アレルギーの有無などの体質、誰に散歩させてもらっているか、家ではどんな振る舞いをしているのか、おおむね知っている。わたしはとにかく犬が好き
夏の休暇は旅行するの。あらいいわね。いつ戻るの。そしたら一日二日ヒマな日があるでしょう。帰っていらっしゃい。 母が珍しく強くわたしの帰省を要求した。その意図するところは明らかで、わたしが延々と物置がわりに使っている昔の子ども部屋を片づけろ、との命である。 いくらなんでもそろそろ部屋を空にしなさいと言われ続けてはや数年。わたしは重い腰を上げ、故郷と言うほどには離れていない生家に向かった。ちょうどいいといえばちょうどいい。わたしたちのプリキュアを発掘してこよう。 先日、従姉が入院した。たいした病気ではないそうなのだが、生まれて初めての手術を控えていたからか、それとも年を重ねたからか、ちょっとばかり弱気になっていて、見舞いに行くと昔話をたくさんした。あのときは楽しかったね、と何度も言った。 あのときとは、従姉の母親、わたしの伯母の通夜の日のことである。 そのとき従姉は大学生で、いかにも気丈に来客
だから排斥用語としての「芸術家」は禁止したほうがいい。 会社員兼美術家の友人が言う。 わけのわからない存在をとりあえず保留するためのラベルとしての「芸術家だから」は、百歩譲ってよしとする。それは「見たことないタイプの人間に遭遇してどう振る舞っていいのかわからないからいったんこの箱に入れておきますね」という程度のものだからね。芸大出てればその種の箱に入れられる機会は飽きるほどある。彼らの九割にはたいした悪気はない。たいていは放っておいてくれるし、仲良くなれる人もいる。 でもあんたの中学だかの同級生たちのしたことはそれとは別だ。珍獣観察がしたくて能動的にあんたを呼んでたんでしょ。なら「珍獣」と呼べ。ケモノ扱いをしますと言え。「ちゃんとした仕事」もせず親からもらった家でのうのうと暮らしているプータローがいい年して男も女もたらしこんで気持ち悪い、普通じゃないから気持ち悪い、気持ち悪いところを見せろ
タマは近所の猫である。ムギとクロという二匹の同居猫と一緒に暮らしている。緑がかった灰色の目の、非対称のハチワレの、小柄で静かな猫である。夕刻になると、白髪をゆるやかに編んだ、緑がかった琥珀の瞳の、どことなくタマに似た女性が、猫たちに家の中から延びるリードをつけて引き戸をあける。すると猫たちは建物の外の線状の敷地に出てしばらく過ごす。敷地と道路の境目はあいまいで、道路には車通りがほどんどない。 わたしは犬を飼っている。四歳の雌の柴犬である。タマ家の前はこの犬の散歩エリアに含まれる。ひとつの散歩コースを好む犬も多いと聞くが、わたしの犬にはまったくそのような性質がなく、わたしがコースを決める日以外の散歩では、自宅から直径五キロ範囲の道路を制覇するかのように毎日ルートを変える。その中にタマ家の前の道路がある。わたしの都合で猫たちが出てくる夕刻に散歩する日は少ないのだが、犬はその機会をのがさず「今日
壁を塗りに来ないか。 そのように誘われたので行くとこたえた。変わった誘いにはとりえあず乗っかるたちである。中古の一軒家を買って自分で壁を塗っているからやってみないかと、そういう話だった。 往路の電車で友人が作成した作業解説動画を閲覧する。大切なことだけれど、と画面の中の彼女は言う。このペンキは水性だから臭くない。動画を三十秒を残して電車が駅に着く。 通されたのはリビングと思われる広い部屋で、まだ空っぽだ。真ん中に大きなブルーシートが敷いてあり、友人の小学生の娘がいっぱしの手つきで木箱を塗っていた。聞けば「一年生のときに選んだ色に飽きた」のだそうである。床材は友人のパートナーがその仲間たちと張ったという。ビーバーみたいな家族である。 友人に借りた作業用の上着を羽織る。 わたしはまったく知らなかったのだけれど、塗る時間より塗る準備をする時間のほうがずっと長いのだった。ペンキを塗る面のキワにマス
三家族の大所帯で海辺の町を旅行し、帰る日のお昼に名産のウニを載せた丼を食べた。 帰宅して洗濯機を回しながら家族が言う。さすが生産地、質の良い海胆だったね。ちなみにどうやって食べた。 わたしは自分の昼の行動を思い浮かべる。通常の丼ものはおかずとごはんの配分を均等にして食べるが、海鮮丼は例外である。酢飯でない普通のごはんとあわせるとき、たいていの刺身は単体かごはん少なめのほうが美味しい。だからまずは海胆をつまみ、海胆と少量の米飯を試し、わさび多めと海胆の組みあわせにごく少量のコメを「このたびのベース」と決め、半分食べたところで、中央に落とされていたうずらの卵を慎重に拾ってミニ卵かけごはんゾーンを作成、香の物とともに気分転換ポイントとし、その後、海胆に戻った。 わたしの話を聞き、彼はおお、と嘆息した。わがベターハーフよ。さすがだ。おれもまったく同じことをした。愛をあらたにした。 うずらの卵一個で
かつて希望は永遠だった。だから無根拠に何でもできる気がしていた。絶望すればそれもまた永遠で、だからそれは地獄なのだった。愛は永遠だった。憎しみは永遠だった。 しかしそんなのはもちろん、永遠ではないのだった。わたしの希望は今や具体の水準まで縮み、わたしの絶望はわたしが寝れば一緒に寝つくほど弱く、愛は「お互いがお互いを思いやってうまいこと暮らしていけるなら、その間は続くかもね、そうじゃないかもわからないけど」という程度の重さしかもたず、憎しみに至ってはときどき夜明けの夢に影を落とす残滓にすぎないのだった。 それはわたしが年をとったからである。 若いときにだって、人生が永遠でないことはわかっていた。いつか死ぬのだと思っていたし、それがとても怖かった。同時に「いつか」と今のあいだは、永遠と見まごうほどに長かった。わたしの希望はそこを目指して飛んでいった。小さい点になって見えなくなって、見えなくなっ
よく眠れたら気分が良い。しかし、少々の睡眠不足もそう悪いものではない。「今日の寝つきはさぞ良いだろう」と思えるからである。 レストランでコースを食べてデザートにコーヒーを合わせるのは特別なときだけである。夜に、しかもアルコールとちゃんぽんで、カフェインを摂る! なんてこった。不良のすることである。 朝は決まった時間に起きて日光を浴びる。これがもっとも重要である。運動も必須だ。週に二回はジムへ行く。 わたしは眠るのがへたである。今は前述のような努力によって人並みに眠れるようになったが、以前はひどいものだった。もちろん医学的にもしっかり睡眠障害だった。苦しかった。それでずいぶんがんばった。 若く貧しかったころは家賃を抑える必要があったが、朝の日光が大切なので、駅から遠くてボロボロでも日当たりの良い部屋を借りた。夜中まで働かなくて済むよう常に効率を考え、深夜まで出かけるのは月に一度までとし、年に
かわいいと言われたくなかった。正確には、大半の人に言われたくなかった。 なぜ言われたくないのかと問われたら、むしろ「なぜ言われて嬉しいと思うのか」と問い返したかった。守るべき子どもではない成人に対して別の属性の人間が「かわいい」と言うとき、その大半は「御しやすそう」という意味を含む。若い女同士だと別のコードが発生する。たとえば「若い女として価値が高いとされる容姿である」とか「一緒にいるときに都合が良い容姿である」とか、そういう意味である。 わたしはそんなのひとつも嬉しくなかった。 わたしをかわいいと言っていいのは親と仲の良い友だちとつきあいが長くて信頼している彼氏だけだ、と思っていた。そういう相手の言う「かわいい」はわたしに対する評価ではなくその人の感情である。それは言ってくれてもかまわない。わたしも言う。わたしが日常的に感情のやりとりをすることを相互に了解している相手だからである。 それ
五十の坂が見えるとにわかにホットになる話題が「親の家の片づけ」である。 友人が言う。うちの親もね、わたしがちょいちょい顔出してやいやい言ってるし、近所の友だちに対する見栄もあるから、一階はきれいにしてる。でもさあ、なにしろ田舎の立派な一軒家だから、二階は物置よ。で、本人はもう階段上がるのも面倒になってる。どうすんの、あの大量のがらくたを。 わたしは友人の話に頷きつづける。友人は怪訝そうに尋ねた。なに仏さんみたいな顔してんの。 わたしは言った。わたしはもう、親の持ち物に関しては、好きにしてもらおうって決めたの。物置部屋があるなら万々歳、生活空間が多少ごちゃついたっていいじゃない。 かつてはわたしも親たちの大量の所有物に眉をひそめていた。最後に片づけるのはわたしら子どもじゃん、と思っていた。そして生家を訪ねては、物置と化した客間(昔の住宅にはなぜかこの客間というやつがあった)とかつての子ども部
好きじゃないんだよ、推しなんだよ。 つまりさ、その人たちは俺に「つきあってください」とか言わない。仮に他の誰かに「つきあいたいんですか」って訊かれたら「そういうんじゃなくて、推しなんです」って言う。実際あの人たちはそうなんだと思う。 俺は思うんだけど、「つきあいたい」という意識を持たずに相手との関係を欲望することは可能なんだよ。その欲望が顕在化するのは俺が「つきあってください」とか言ったり、それっぽいアプローチをしたときだけ。受動的欲望っていえばいいかな。「つきあってくれって言われたらびっくりしちゃう」みたいなやつ。これはね、たしかに「つきあってほしい」とは違うんだ。明確に違う。だから推しだと、彼女たちは言うわけだ。「つきあってほしい」じゃないから断る機会もない。 そして推されている俺は遠回しに個人情報を訊かれたり、恋愛対象を特定しようと画策されたり、女同士で結託して接点を作られたり、めん
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