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note.com/hatakeyamaushio
本日はこのような場を設けていただき、誠にありがとうございます。 改めて、芥川賞という、たいへん栄誉ある賞をいただいたこと、嬉しく思います。同時に、少しばかり居心地の悪さを感じてもいます。パーティーというのは、また主賓というのはそういうものだ、それぞれがそれぞれの居心地の悪さを担い合うことでしか、場というものは成り立たないのだ、と言ってしまえばそれだけなのですが、今日はもう少しだけそのことについて考えてみたいと思います。 居心地の悪さ、というのは、ごく簡単に言えば、自分がいるべき場所にいない、ということだと思います。逆に言えば、この宇宙にただ一つだけあるのか、それともいくつもあるのかはわからないけれども、ともかくも自分がいるべき場所に、人型に自分の肉体を嵌めるように寸分たがわず身を置いていれば、居心地の悪さ、を感じることはないはずです。 自分がいるべき場所、と言われて、私が思い浮かべるのは温
去年の京都での円城さんとの対談で『コード・ブッダ』の中世ぽさについて話したが、これは前提として、今小説から描写が消えつつあり、説教(エンパワメント)/法悦(エモ)復権の時代であるという意識がある。読者が舶来ものに飽きたと言えばそれまでであるが、書き手としては身の振り方を考えなければならない。 司馬遼太郎の語り口というものがある。司馬はほとんど描写をしない。するのは説明である。描写というのは上にも書いたが近代の輸入技術であり、書くのも読むのもはっきり言って面倒である。難点もあって、ストーリーにブレーキがかかる。小説の速度が落ちる。うまく行っても継ぎが残る。ではなぜそんな技術を輸入したかというと、いろいろな見方・理由があるが一番には説得力である。フィクションというものはフィクションなのでまず読み手にそんな世界が存在することを了承してもらう必要があるのだが、時間をかけて視覚的な証拠を並べると、「
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