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ブラックフライデー
syu-m-5151.hatenablog.com
はじめに 金曜日の夜、ベッドの上でこの文章を書き始めている。 先週の土日は何をしていたかと聞かれたら、たぶん「寝てた」と答える。嘘ではない。ベッドにいた時間は長かった。ただ、眠っていたかというと怪しい。スマホを持ったまま横になって、気づいたら夕方だった。そういう二日間だった。 休んだのか、と聞かれると困る。 体は動かしていない。仕事もしていない。だから休んだと言えば休んだのだろう。でも、回復したかというと、していない。月曜の朝を迎える自分は、金曜の夜の自分より確実に疲れている。 何もしていないのに。何もしていないから、かもしれない。 30歳になった。エンジニアとして働いている。在宅勤務というやつだ。2025年、AIエージェントが当たり前になった時代を生きている。 AIは文句を言わない。疲れたとも言わない。24時間動ける。私にはそれができない。コーヒーがないと朝は動けないし、金曜の午後は集中
Claude Codeを使い始めて、様々な発信をしてきました。今回は「Agent Skills」について。これも設定しておくと、Claude Codeがグッと使いやすくなる機能です。 Claude Code の settings.json は設定した方がいい - じゃあ、おうちで学べる Claude Code の CLAUDE.mdは設定した方がいい - じゃあ、おうちで学べる Claude Code の .claude/commands/**.md は設定した方がいい - じゃあ、おうちで学べる Claude CodeのHooksは設定したほうがいい - じゃあ、おうちで学べる Claude CodeのSubagentsは設定したほうがいい - じゃあ、おうちで学べる はじめに 「このプロジェクトではpython-pptxを使ってスライドを作って」「SQLは必ずこのフォーマットで書いて」
はじめに 「自分の環境では動くんだけど...」という言葉を、何度聞いたことがあるだろうか。開発環境の差異は、これまで「手順書」「Docker」「asdf/anyenv」で解決を試みてきたが、いずれも時間経過で破綻する。手順書は陳腐化し、Dockerfileのベースイメージは変わり、asdfは言語ごとにツールが分散する。問題の本質は「環境の固定」ではなく「依存関係の完全な追跡」にあった。これを根本から解決するのが、純粋関数型パッケージマネージャ「Nix」と、その最新機能「Nix Flake」だ。 これらの課題感については Infrastructure as Code, 3rd Edition が詳しく論じており、参考になる。2025年 俺が愛した本たち 技術書編 に入れれていなくて悲しいほどよい書籍である。オライリー・ジャパンさん 自分は翻訳の準備できてます!!! Infrastructur
労働こそが最高の学習だった あなたは最近、「成長している」と感じているだろうか。 かつて、プログラマーにとって、労働こそが最高の学習の場だった。なぜか。労働には「摩擦」があったからだ。エラーが出る。原因がわからない。仮説を立てる。試す。失敗する。また試す。この摩擦の中で、経験が意味に変わっていた。労働は、経験を意味に変換する装置だった。 以前の開発を思い出す。新しいフレームワークを覚えなければならない。エラーと格闘して、ドキュメントを読み漁って、やっと動いたとき。あの達成感は、単なる満足ではなかった。「なぜ動かなかったか」「どう直したか」「次に同じ問題が起きたらどうするか」——この因果の記憶が、脳に刻み込まれていた。困難を乗り越えた記録が、自分の中に残っていた。 Claude Codeで開発している今、コードは書ける。動く。レビューも通る。Claude CodeはAnthropicが提供す
はじめに 深夜2時、本番環境のアラートが鳴り響きます。外部APIがタイムアウトを返し始め、リトライが暴発し、システム全体が連鎖的に停止しました。原因を調べると、外部サービスの一時的な遅延でした。たった数秒の遅延が、なぜシステム全体を止めたのか。答えは単純です。「外部APIが遅延したらどうなるか」を、誰もテストしていなかったからです。 私自身、このような障害を何度か経験してきました。コードをマージした翌朝にSlackが炎上していたこともあります。「なぜこのケースを考えなかったのか」と自分を責めながら、ホットフィックスを書いた夜もあります。そのたびに思います。あのとき、たった1つのテストを書いていれば。 これは「異常系テスト」の不足が引き起こした障害です。正常系のテストは比較的書きやすいです。入力があり、期待する出力があり、それを検証します。しかし、プロダクション環境で本当に問題になるのは異常
はじめに 会議室で誰かが「戦略」と言った瞬間、空気が変わる。 みんなの背筋が伸びる。うなずきが深くなる。誰かがおもむろにホワイトボードの前に立ち、矢印を描き始める。私も「なるほど」という顔をしてみる。眉間にしわを寄せ、顎に手を当て、いかにも深く考えているふうを装う。会議室にいる全員が、突然「戦略を理解している側の人間」になる。 ただ、私は知っている。この部屋にいる何人かは、私と同じことを思っているはずだ。 「で、結局、何をするの?」 言えない。絶対に言えない。「戦略」という言葉が持つ重厚感に押しつぶされて、そんな素朴な疑問は喉の奥に引っ込んでしまう。分かっていないことがバレたら終わりだ。「あいつ、戦略を理解していない」というレッテルを貼られたら、もうこの会議室での発言権はない。だから黙る。黙って、賢そうな顔を続ける。 不思議なのは、誰もが同じ演技をしているように見えることだ。部長も、課長も
この記事は、Vim Advent Calendar 2025 13日目のエントリ記事です。 はじめに VSCodeやJetBrains製品は、膨大な開発リソースを投じて作られた最強の武器だ。補完、デバッグ、Git統合、拡張機能——すべてが高度に洗練されている。多くの開発者にとって、これらを選ぶのは賢明な判断だと思う。 それでも、私は自分で刀を打ちたい。 ただし、誤解のないように言っておくと、名刀を打ちたいわけではない。美術館に飾られるような、完璧な一振りを目指しているわけではない。私が欲しいのは、戦場で戦うための道具だ。多少キズがあってもいい。見栄えが悪くてもいい。自分の手に馴染んで、明日の仕事で使えればそれでいい。 では、なぜ自分で作るのか。正直に言えば、効率の問題ではない。もっと根本的な、性分の問題だ。 思い返すと、私は子供の頃から構造や仕組みがどうしても気になって、分解してしまうクセ
はじめに 正直に言う。この文章を書くかどうか、ずいぶん迷った。「専門家はもっと声を上げるべきだ」という意見に対して、「いや、話さないんですよ」と返すのは、なんだか後ろ向きに見えるかもしれない。諦めているように聞こえるかもしれない。そういう風に受け取られるのは、ちょっと嫌だな、と思った。 でも、書くことにした。なぜなら、「話せばいいじゃん」「振りかざせばいいじゃん」という言葉に、ずっと違和感を抱えてきたからだ。その違和感の正体を、自分なりに言葉にしてみたかった。これは、専門家として組織の中で働いてきた、私個人の経験と考えだ。すべての人に当てはまるとは思わない。でも、同じような経験をしている人が、もしかしたらいるかもしれない。そういう人に届いたらいいな、と思いながら書いている。 「専門性の刃で殴りかかってこい」への違和感 「専門家が『力』をセーブせずに全力で専門性を振り回してもリスペクトされる
はじめに 「今年読んで良かった本」という記事を書こうとしている自分に、ふと気づく。また書くのか。毎年書いている。誰に頼まれたわけでもないのに、12月になると決まってこの作業を始めてしまう。習慣なのか、義務感なのか、それとも単なる自己顕示欲なのか。たぶん、全部だ。 100冊近く読んだ、と書こうとして手が止まる。この数字を出した瞬間、どこかで「すごいですね」と言われたい自分がいる。同時に、「いや、冊数なんて意味ないですから」と予防線を張りたがっている自分もいる。めんどくさい人間だ。でも正直に言えば、100冊読んだことより、1冊を血肉にできた人のほうがよほど偉いと本気で思っている。思っているのに、冊数を書いてしまう。そういう矛盾を抱えたまま、この文章を書いている。 AIに聞けば答えは返ってくる。2025年はそういう年だった。コードを書いてもらい、設計を相談し、ドキュメントを要約させた。便利だ。本
集中できなくなった 何かがおかしい。 AIエージェントを使い始めてから、自分が壊れていくのを感じていた。以前は4〜5時間ぶっ通しで集中できた。コードを書き始めたら、気づいたら夕方になっていた。あの没入感。あの充実感。それが、完全に消えた。 30分も持たない。いや、10分だろうか。1つの作業に没頭しようとしても、すぐに別の作業に引き戻される。戻ってきたら、さっき何をしていたか忘れている。頭の中が常にざわついている。自分の脳が、自分のものではなくなっていく感覚があった。 最初は自分を責めた。集中力が落ちたのは、体力のせいか。年齢のせいか。怠けているのか。スマホの見すぎか。でも違った。同じように苦しんでいる人が、周りにもいた。 きっと、最初からうまく馴染める人もいるのだろう。複数のエージェントを同時に回しながら、涼しい顔で成果を出せる人。元々、全体を俯瞰しながら動くのが得意な司令官タイプ。私は違
はじめに 私たちは「実力」という言葉を履き違えています。 特に私がそうでした。様々な人の助力で得た結果、たまたま条件が揃って出せた最高到達点を「自分の実力」だと勘違いしていました。そして、その水準に届かない日々の自分を見て、「なんでもっとできないんだ」と追い込んでいました。結果は散々なものでした。心身ともに疲弊し、パフォーマンスはさらに落ち、悪循環に陥りました。しかし、その経験から大きな学びもありました。 ゾーンに入り、神がかった速度でコードを書く自分。難解なバグを一瞬で特定する自分。私たちは、あの奇跡的な瞬間を「自分の実力」だと信じ、そうでない日を「調子が悪かった」と言い訳します。 逆です。 何もやる気が起きず、頭も回らず、ただ惰性でキーボードを叩いている日。その泥のような日に絞り出したアウトプット。それこそが、紛れもない私の「実力」です。 絶好調のときの成果は、再現性のない「運」や「上
この記事は、whywaita Advent Calendar 2025 8日目のエントリ記事です。 whywaita Advent Calendar 10周年ということで、自分もwhywaitaとの出会いと10年という節目を掛けて何か書きたいと考えたのですが、うまいネタが思いつかず。とはいえ、whywaitaと出会ったきっかけがお祭り的な技術イベントだったので、今回は技術イベントの「お祭り性」について語っていきます。 思い返すと、技術コミュニティとの出会いは、いつもお祭りのようでした。見知らぬ人と技術の話で盛り上がり、気づいたらとんでもない深い時間になっていた懇親会。準備段階から当日まで、ワクワクしながら作り上げた勉強会。あの空気感こそが、私をエンジニアとして成長させてくれた原動力でもありました。 そんな私が最近読んで、考えさせられた記事があります。 はじめに Sakutaroさんが書かれ
この記事は、Rust Advent Calendar 2025 6日目のエントリ記事です。 はじめに 「それって、○○みたいなものですよね」 私は、この言葉に何度救われてきただろう。新しい概念を理解するとき。誰かに説明するとき。問題を解決するとき。類推は、私の思考の基盤だった。いや、今でも基盤だ。ただ、その基盤が思ったほど頑丈ではなかったことを、私は何度も思い知らされてきた。 Rustを学び始めた頃の話だ。Rustは、プログラミング言語の1つだ。安全で高速なプログラムを書けることで知られている。私はRustの公式教科書「The Rust Programming Language」を読んでいた。所有権の章に差し掛かったとき、こんな説明に出会った。 Rustには「所有権(ownership)」という独特の概念がある。少し専門的な話になるが、プログラムを書くとき、データはコンピュータの「メモリ」
はじめに 「おい、がんばるな」という言葉を書いた。あの文章を読み返して、私は少し後悔している。 syu-m-5151.hatenablog.com 言いたいことは分かる。がむしゃらに頑張ることが思考停止になる。忙しさが逃避になる。持続可能性が大事だ。それは正しい。私も経験してきたことだ。でも、あの文章には、書かなかったことがある。書けなかったことがある。「頑張らなくていい」という言葉が、どれほど危険な響きを持っているか。その言葉が、どれほど簡単に、怠惰の免罪符になってしまうか。 私は「頑張るな」と言った。でも、それを読んだ人の中に、こう受け取った人がいるだろう。「そうか、頑張らなくていいんだ」「無理しなくていいんだ」「今のままでいいんだ」と。もしそう受け取った人がいたら、それは私の責任だ。だから、今日は別のことを書く。 「おい、努力しろ」 これは、あの文章への補足ではない。あの文章への反論
はじめに 先日、久しぶりに会った友人に言われた。 「なんか最近、顔が疲れてない?」と。私は「まあ、仕事が忙しくて」と答えた。友人は「頑張ってるんだね」と言って、ビールを一口飲んだ。 頑張ってる。 その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸のあたりがざわついた。褒められているはずなのに、全然嬉しくない。むしろ、何かを見透かされたような、居心地の悪さがあった。 帰り道、ずっと考えていた。私は確かに頑張っている。毎日遅くまで働いているし、休日も勉強しているし、やるべきことは山ほどある。でも、だから何なんだろう。頑張っているから、何なんだ。 30歳になった。 節目だとか、大人になったとか、そういう感慨は特にない。ただ、20代の頃とは何かが決定的に違う。何が違うのか、最初はよく分からなかった。体力が落ちたとか、徹夜ができなくなったとか、そういう分かりやすい話でもない。 しばらく考えて、ようやく気づいた。 「頑張
この記事は、3-shake Advent Calendar 2025 2日目のエントリ記事です。 はじめに ブログを書いては直し、また直す。同じ文章を何度も触っていると、客観的な判断ができなくなってくる。「これで本当に伝わるのか?」という疑問だけが残る。 コードにはレビューがあり、デザインには批評がある。しかし、技術ブログには明確な基準がない。その不安を解消するために、最初は自分の文章を評価する「プロンプト」を作って運用していた。防御力、思考整理力、実践応用性など、6つの観点でAIに評価させるのだ。 だが、すぐに問題にぶつかった。「面倒」なのだ。記事を書くたびにプロンプトを開き、貼り付け、結果を待つ。この手動のひと手間があるだけで、次第に「今日はまあいいか」とサボるようになり、せっかくの基準も形骸化していった。 だから、環境ごと変えることにした。 生成AIのエージェント機能を使い、ブログレ
はじめに 「Just use Postgres」という言葉を初めて聞いたのは、いつだったか覚えていません。Twitter か Hacker News か、あるいは社内の Slack か。どこで聞いたにせよ、私の反応は決まっていました。「また極端なことを言う人がいる」と。 「それ、〇〇でもできますよ」——この手のフレーズはもう100回は聞いてきました。そして大抵の場合、その〇〇は専用ツールに置き換えられていきます。技術が専門分化していくのは自然な流れです。 全文検索なら Elasticsearch。時系列データなら InfluxDB。メッセージキューなら RabbitMQ。それぞれの分野に専門家がいて、専用のソリューションがあって、ベストプラクティスがあります。「とりあえず Postgres で」なんて、それは思考停止ではないか、と。でも、心のどこかで気になっていたんです。 www.mann
はじめに 私は本を読むのが好きです。朝、コーヒーを淹れて、ソファに座って、ページを開く。その時間が好きです。物語の中に入り込んで、登場人物の人生を追いかけ、著者の思考を辿り、知らない世界を覗き見る。ただ、それが楽しいんです。 でも、誰かに「最近、何か読んだ?」と聞かれて、タイトルを答えると、必ず次の質問が来ます。「へえ、面白かった? 何か学びはあった?」あるいは、こんな質問が来ます。「その本、どういうジャンル? 自己啓発系?ノンフィクション?」違和感があります。 映画を見たあと、「何か学びはあった?」なんて聞かれません。音楽を聴いたあと、「それ、自己啓発系?」なんて聞かれません。ゲームをクリアしたあと、「成長できた?」なんて聞かれません。でも、本だけは違います。読書には、常に「目的」が求められます。「成長のため」「知識を得るため」「キャリアアップのため」。ただ楽しいから読む、では許されない
はじめに 会議室の空気が、徐々に重くなっていくのを感じました。「この設計、拡張性に問題があります」。若手エンジニアのAが言いました。声には確信がありました。「いや、今の要件を考えれば、これが最適だよ」。ベテランのBが即座に返します。口調は穏やかですが、譲る気配はありません。「でも、将来的に機能追加があったときに...」「将来のことばかり考えていたら、今のリリースが間に合わない」二人の言葉は交差しますが、交わりません。言葉のキャッチボールに見えて、実は2つのボールが空中でぶつかり合っているだけです。ボールは地面に落ち、誰も拾いません。 私は黙って二人を見ていました。どちらの言い分も分かります。Aは技術的負債を恐れています。Bは納期のプレッシャーを感じています。どちらも正しく、どちらも間違っていません。何かが決定的に欠けています。対話が、ありません。二人は話しています。言葉を交わしています。し
はじめに 数年前、私は大きなプロジェクトに取り組んでいました。SREとして、メール配信システムの大規模な障害に直面していました。毎日数百万通のメールを処理するシステムが、突然、配信遅延を起こし始めました。遅延は徐々に悪化し、やがてメールが数時間も届かなくなりました。ユーザーからの問い合わせが殺到しました。経営層からのプレッシャーも増していきました。 いくら調べても原因が分かりません。データベースのクエリを最適化しました。キャッシュを増やしました。サーバーのスペックを上げました。でも、問題は解決しませんでした。設定を何度見直しても、どこがおかしいのか分かりません。 数日間、問題と向き合いました。さまざまな知識を集めました。組み合わせを試しました。でも、決定的な答えは見つかりませんでした。疲れて、その日は諦めて寝ることにしました。 ベッドに入って、目を閉じました。眠れませんでした。頭の中で、断
はじめに 「言語化」という言葉を聞くたびに、私は少しだけ居心地が悪くなる。この感覚に初めて気づいたのは、数年前の、ある夏の午後だった。後輩エンジニアとの1on1で、私は彼にコードレビューのコツを教えようとしていた。モニターに映るコードを指差しながら、「このコードの何が良くないか、分かる?」と聞いた。彼は首を横に振った。私は言葉を探した。「ここの設計が、将来の拡張性を損なっている」「この命名は意図が伝わりにくい」「ここのロジックは複雑すぎる」。彼は真面目にメモを取った。頷いた。理解したような表情をした。でも、次のレビューでも、同じ問題が繰り返された。その次も。さらにその次も。私は、教え方が下手なのだと思った。説明が足りないのだと思った。もっと丁寧に、もっと具体的に、もっと分かりやすく。そう思って、さらに言葉を重ねた。 三ヶ月が過ぎた。ある日、彼は変わっていた。私が指摘していたような問題を、自
はじめに 会社のデスクで、モニターを二つ並べて仕事をしている。左の画面には誰かが書いたコード、右の画面には自分が今書いているコード。他人のコードを読んでいると、時々分からなくなる。この人は何がしたかったんだろう、って。変数の名前から推測して、処理の流れを追って、でも結局本人に「なんでこう書いたの?」って聞くと、「なんとなく」「前にこう書いたから」「誰かのを参考にして」。そういう答えが返ってくる。 ふと、気づいた。これって、自分の人生も同じじゃないか。なんとなく選んだ会社。なんとなく続けている仕事。理由を聞かれても、ちゃんと答えられない。「みんなが良いって言ってたから」「前にこうしたから」「そういうものだと思ってたから」。朝起きて、メールをチェックして、タスクをこなして、会議に出て、気づいたら夜。明日も同じ。来週も同じ。来月も同じ。これは、私が望んだ人生なんだろうか。それとも、どこかから借り
はじめに SNSを開けば、今日もまた誰かが何かに本気だ。 新しい技術やフレームワークに興奮するエンジニア。最新のビジネス書を読んで「人生が変わった」と叫ぶビジネスパーソン。世の中の理不尽に憤慨し、世界を変えようと声を上げる活動家。生成AIの新機能やツールのアップデートに「未来が来た」と歓喜する人々。自己啓発系インフルエンサーの「新しい生き方」に感銘を受け、それがストア哲学やブッダの教えの言い換えに過ぎないと気づかない人々。 世の中には、あらゆることに本気になれる人がいるものだ。 私は、一歩引いた場所から、彼らを観察していた。興味深い現象として。分析対象として。 本を読んだ。いろんな本を。技術書も哲学書も歴史書も。視野が広がった。気づけば環境問題も、格差も、戦争も、技術トレンドも、ビジネス理論も、すべてが複雑に絡み合った世界が見えていた。 そして同時に、絶望も見えた。 簡単な解決策などない。
はじめに 「本が読めない」――多くの人がそう言います。それも、決して能力の低い人たちではありません。仕事は速く、正確で優秀な人たちです。それなのに、本が読めない。数ページで集中力が切れてしまう。気づくとスマホを見ている。「昔は読めたんですけどね」という声もよく聞きます。昔は確かに読めたのに、今は読めない。そして誰もが「最近集中力が落ちて」と言います。まるで集中力が老化とともに自然に衰えるものだと信じているかのように。 よく観察していると、ある共通点が見えてきます。すぐに答えを出そうとする。じっくり考えることをしない。検索して表面的な理解で満足してしまう。「調べればわかるし」と。確かに調べればわかります。でも、それは本当に「わかった」ことになるのでしょうか。 複雑な問題を単純化し、わかりやすい結論に飛びつく。白か黒か、正しいか間違っているか、そんな二元論的な答えを求める。グレーゾーンや曖昧さ
はじめに 「今日も、何もできなかった」。夜の部屋で、私はその言葉を呟く。また。今日も。 仕事をしなかったわけではない。むしろ一日中、何かをしていた。画面を見つめ、キーボードを叩き、メッセージを返し、タブを切り替え続けた。体は疲れている。目も疲れている。頭も疲れている。確かに疲労感はある。なのに、達成感がない。忙しかったのに、何も完了していない。この矛盾が、私を苦しめる。 朝、デスクに座った瞬間から、地獄が始まる。Slackを開くと未読の赤いバッジが十件以上浮かんでいる。「全部返信しなければ」。次にメールを開くと新着が三件ある。「これも返信しなければ」。GitHubのタブをクリックするとレビュー依頼が二件待っている。「これも見なければ」。そしてTwitterを開くとタイムラインに流れてくる技術記事のタイトルが目に入る。「これも読まなければ」。全部が重要に見え、全部をやらなければいけない気がす
はじめに どれだけ技術を学んでも、どれだけ正しいプロセスを知っていても、燃え尽きてしまったら意味がない。才能ある若者たちが最初は誰よりも速く理解して、誰よりも多くのコードを書いていたのに、数ヶ月後には姿を見せなくなる。「疲れた」と言って離れていく。 逆に、最初は遅くても数年経った今も黙々と学び続けている人たちがいる。彼らに共通しているのは、自分を大切に扱う習慣を持っていることだった。ちゃんと眠る。ちゃんと食べる。ちゃんと休む。そしてちゃんと掃除する。その中でも最も基本的な実践が、掃除だ。 在宅勤務を始めて六年目のある朝、ふと自分の部屋を見回した。 今、部屋は比較的綺麗だ。床に物は落ちていない。デスクの上も整理されている。技術書も本棚に並んでいる。窓を開けて空気を入れ替える習慣もついた。カーテンも開いていて、部屋の中は明るい。 30歳のエンジニア、独身。在宅勤務という働き方は自由をくれたはず
はじめに ワークショップが始まる三十分前、会場の隅で、一人の若者がノートPCの画面を凝視していた。 ブラウザには二十を超えるタブが開かれている。Dockerの公式ドキュメント、Kubernetesの公式リファレンス、Qiita、Zenn、個人ブログ。静かな会場に響くのは、マウスホイールを回す音だけで、彼は次から次へとタブを切り替えながら、何かを探すように、あるいは何かから逃げるように、ドキュメントを読み続けていた。読んでいた、という言葉はきっと正確ではなくて、目で文字を追っているだけで、その言葉が本当に頭の中に入っているかどうかは、おそらく彼自身にも分からなかったのだろうし、分からないことに気づかないふりをしていたのかもしれないし、あるいは気づいていたけれど認めたくなかったのかもしれない。 「準備しておかないと」 ぽつりと呟いた声は、誰に向けられたものでもなかった。会場には他にも何人か早め
はじめに 「才能がない」と言われたことがあるでしょうか。それとも、友人や知り合いと自分を比べて、自分で自分にそう言い聞かせたことがあるでしょうか。 学生の頃からエンジニアを志してきた私は、コンテストで優秀な成績を残す人たちを目の当たりにしてきました。大手IT企業に入社し、優秀な同期と出会いました。勉強会やカンファレンスに足を運び、そこで出会った人たちの軌跡を追ってきました。 華々しくスタートアップを立ち上げた人、革新的なプロダクトを生み出した人、OSSコミュニティで名を馳せる人。一方で、いつの間にか表舞台から姿を消した人もいます。これらがごく一部の狭い世界でしかないことも、自覚しています。 そして今、インターンシップやワークショップで若手エンジニアと接する機会が増えました。3年ほど前に始めたこの活動──正直に言うと、自分が未熟なまま始めてしまったという不安は、今でもどこかにあります。 彼ら
sizu.me はじめに 先日、「技術力に優劣はない(技育などに参加している学生に向けて)」という記事を読みました。技育に参加する学生たちへの励ましのメッセージで、技術との向き合い方の多様性を認め、コミュニケーション力の重要性を説き、相互リスペクトの大切さを訴える、とても温かい内容でした。 この記事は、あの記事の対象読者ではない私が、横から口を出すような形になってしまうことを承知で書いています。 元の記事の主張——技術の感受性には段階があること、ジュニアにはコミュニケーションが大事なこと、べき論に揺さぶられないこと、どの段階にいてもキャリアは作れること——これらは本質的に正しいと思います。 ただ、私はこう思います。それでもなお、技術力という軸においては、やはり優劣が存在し、それが中長期的なキャリアに大きな影響を与えます。 このブログが良ければ読者になったり、nwiizoのXやGithubを
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