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ブラックフライデー
note.com/sensou188
2025年11月7日の衆議院予算委員会で、高市早苗総理が中国が台湾に武力侵攻する事態「台湾有事」を巡って、安全保障関連法の規定で集団的自衛権の行使が可能となる「存立危機事態」に当たるかどうかを問われて「戦艦を使い、武力の行使も伴うものであれば、存立危機事態になり得るケースだと考える」と述べました。 これは、中国が武力行使をした際、日本は参戦すると受け止められる内容で、中国側の最初の反応は駐大阪総領事の「台湾海峡問題に首を突っ込むなら、その汚い首を斬ってやる」とのSNSでの発信でした。これを中国中央の反発を代弁したものととらえず、その言葉だけを巡って中国が失礼だという雰囲気が広がり、だんだん中国側の発言者のポストが上がっていっても対応がまともにとられていません。そして日本への観光自粛、留学自粛、日本アニメ上映延期、日本産水産物輸入停止、と、段階を追って圧力がかけられる事態になっていて、日本バ
明治時代にも刑法に規定がなかった「日本国国章損壊の罪」(国旗損壊罪)の問題点を考えたーいかようにでもとれる条文には注意が必要 現在の日本の刑法は、1907(明治40)年に制定されたものがベースで、改正を重ねて現在に至っています。そこに、参政党が2025年10月27日、「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を提出しました。 同党のホームページで確認すると、「第四章 国交に関する罪(第90条ー94条)」に、「第四章のニ 日本国国章損壊の罪」を加え、「第94条の2 日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁系又は二十万円以下の罰金に処する」を追加するというものです。提出理由は「日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損する行為についての処罰規定を整備する必要がある」となっています。 また、自民
マレーシアでの高市早苗首相の行為が話題になっている中、せっかくなのでマレーシアの教科書の記述を紹介ー禍転じて福となすべく、歴史を直視したい 一方、2025年10月26日、首相に選出されて初めてマレーシアを訪れた高市早苗首相がクアラルンブールの日本人墓地で慰霊碑に献花し「先人を慰霊」した後、二度の大戦やマレーシアの独立闘争で亡くなられた兵士や市民のための国家記念碑を訪問し、歴史に思いを馳せたとXに投稿しました。 これに対し、海外からも「なぜマレーシアの兵士や民間人が第二次世界大戦で命を落としたのか?それは日本の侵略と占領に対して戦ったいたからだ」「日本が行った残虐行為については一切触れられていない?」「犠牲者を無視しながら侵略者に敬意を払うことは歴史に対する不敬」などのリプが投げられ、日本人からの戦時中の指摘も並びました。 前回のアジア教科書の紹介では、マレーシアは記述が多かったせいもあり取
表題写真を見ますと、普通に「大日本国防婦人会」ー(陸軍が主導して各地に結成された女性の軍事後援組織で、だれでも参加しやすいように、割烹着がトレードマーク)ーのたすきにしかみえません。大日本国防婦人会は1942(昭和17)年、先発の愛国婦人会など、各種婦人団体を統合した「大日本婦人会」に再編されます。その時までは、たすきとしての役割を果たしていたのでしょう。しかし、ちょっと変です。実は、たすきが切られ、別のものに再利用されていました。 元はたすきでしょうが、輪になるようになっていません下はひもを切り、背中側は大部分切り落としてあります たすきを切った布はちょうど筒状になっていて、その中に紙のようなものを差し込んでやや硬めにして、腕章に作り直してありました。その腕章の面がこちらです。 もともとは岡山の旗店で作ったたすきのようですが、このように改造されるとは…。 腕章の文字の部分。「上道郡連合
南京虐殺事件は無かったとかいう政治家がいるようですので、その南京に向かった長野県郷土部隊の戦場の香りを届けたい 相も変わらず、南京虐殺事件はなかったという妄言を吐く政治家を見てしまった。まるで戦時中プロパガンダのようなきれいごとも並んでいたなあ。 そのことで、最も強く感じたのは、この人は戦争に興味も関心もなく、ただただ、人気取りにちょっと過激なことを言ってみているんだろうということ。まじめに過去の戦争にも現在の戦争にも向き合う気持ちがないから、とても軽く重大なことを言ってしまえる。 しかも、それは相手のあること。人数はともかく、多数の犠牲者を、それも中国の国土で出してしまったのは事実。そして、南京攻略には、大義名分もありませんでした。宣戦布告したわけじゃなく、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして、それまでたまっていた日中のもろもろが、とうとう本格的な戦闘になっただけで
発行責任の裏付けなく戦地で刷りまくられた「軍票」が、現地経済を破壊ー金は印刷したら湧いてくるものじゃない 日本軍に限らず、戦地で物資を調達する際、現地通貨の代わりに占領地内だけで通用する「軍用手票」、いわゆる「軍票」と呼ばれるお金ににた印刷物を使うことはよくあります。日本は、日中戦争下の中国や大平洋戦争下で占領した南方の各国でそれぞれ軍票を発行しました。建て前では、臨時の建て替え券のようなもので、経済が安定してきたら実際の通貨と交換して回収させることになっていましたが、日本は一つも実行しませんでした。 戦時下、各国で日本が通用させた「軍票」 これらの軍票の特徴は、通貨としての裏付けがなされていないのに、通貨と同様に無理やり流通させたのが特徴です。こちら、中国で使われた、いずれも10円の軍票を比較するとよく分かります。 上が初期のもの、下が体制を整えた後のもの まず、上の軍票を見てみます。日
大平洋戦争で初の「玉砕」と発表されたことで知られるアッツ島ですが、占領時の島民の運命を本日まで知りませんでしたー一つの文化を破壊した戦争 日本人にはまるで関心を持たれていなかったアリューシャン列島のアッツ島に、日本軍が上陸したのは1942(昭和17)年6月6日から8日にかけてでした。そして戦略拠点としては価値の低いアッツ島、キスカ島占領が当時、大々的に報道されています。こちら、同年6月11日の読売新聞です。 横ぶちぬきの見出しで「米の対日北方攻撃地点破砕」と列島の所要点を確保、とあり、これがアッツ島の上陸占領でした この紙面、実はミッドウェー海戦の報道です。アリューシャン列島攻撃はミッドウェー作戦の牽制作戦として行われたのですが、主作戦たるミッドウェー島攻略・米機動部隊撃滅という2つの目的はいずれも達成できず、逆に日本は主力空母6隻中、この時出撃した4隻全空母と搭載機すべてを失う大敗北。米
全く嘆かわしい。国会に議席を持つ政党の代表ともあろうものが、右派勢力取り込みのため、麦を食べるようになったのは戦後、米国から押し付けられたからとかいう妄言を垂れ流す。自分の利益のためにはあからさまな嘘も平気でつく人間を国政に送ること自体、おかしいことですな。お若い方の支持が多いようですので、ぜひ目をさましていただきたいものです。 というわけで、戦時下を中心とした麦関連の資料をどうぞ。まず、海軍は創設期から、陸軍は日露戦争後、1913(大正)2年から、麦3割の米麦2合飯が一食分の主食でした。こちら、長野県松本市の歩兵第50連隊の内務班で食事をとる下士官。大盛の米麦飯にサンマ、加給食のブドウもあります。さすが長野県。1930年ころ。 ほかに汁と漬物。兵隊さんはこれでも腹が減ってたまらなかったとか こちら、日中戦争当時とみられる肥料の広告です。ちゃんと麦も対象にしています。 次いで、こちらは時期
歴史を調べることについてー軽々に「一次史料」「証拠を示せ」と口走る方は、そもそも歴史の探求というものを理解されていない 満州事変の発端となった1931(昭和6)年9月18日の「柳条湖事件」。関東軍は、当時満州を押さえていた中国の張学良の軍が満鉄(南満州鉄道)の線路を爆破したとして、事件発生と同時に現場から1㌔ほどにある張学良の軍隊の兵舎「北大営」を攻撃します。これが満州事変の始まりです。そして既に準備して照準まで合わせてあった重砲で同時に政治的経済的中心地であった奉天城を攻撃し城内の主要部を占領し、また、各地に邦人保護を名目として矢継ぎ早に軍隊を送り込みます。 これについて、実際に爆破したのは中国軍であり「一次資料がいくつもある」と主張する方がおられました。示されたのは、アジ歴(アジア歴史資料センター)でデジタル化され公開されている満州事変勃発に関連する電報類でした。これは、当時の貴重な資
1933年2月20日は、だまされて街頭連絡に出向いた小林多喜二が特高警察に拷問の末、殺された日です。何年たっても、その事実と日付は動かしがたいものがあります。それは、彼の周囲にはたくさんの人がおり、どう隠そうとも白昼堂々とやらかして、その後の遺体の始末をさせる過程で、またまた多くの人がかかわっているからです。お悔やみに来た人も片っ端から検束されていて、その中には「二十四の瞳」で知られる壷井栄もいました。そして人は通れない路地に、花輪、生花だけは次々と入っていくーそれを持ってくるはずの人がいないというのが、敵を倒してなお、おびえ続けなければならない支配者たちの姿の裏返しだったでしょう。 以前、「一九二八年三月十五日」をまた読みたいと思って「定本 小林多喜二全集」(新日本出版社)を購入、少しずつ読んでいましたが、実はこの最終巻の15巻が小林多喜二に対するさまざまな人の論評や思い出話が入っており
この記事を書いている2025年2月16日、世界ではウクライナへのロシア侵攻が3年続き、イスラエルによるパレスチナ人への迫害が激化しています。ミャンマーも国軍がクーデターを起こして2年、内戦状態で治安が悪化し、さまざまな犯罪の拠点となりつつあるという状態です。そして米国では米国第一主義のトランプ大統領が、政府組織から意に沿わない人達を次々と放逐し、メディアも選別して自分好みの情報発信を図るという状況です。国際連合の常任理事国が侵略の当事者となっている中、国際組織による解決や抑止が機能しなくなっています。 そんな中、日本はどうでしょうか。自民党が少数与党に転落する一方、排外的な主張をする政党が国会に議席を確保するという状態です。特に地方の市町村議会で、いつの間にかそうした政党に籍を置く議員が広がりつつあるのが現実です。 ◇ ここで、ナチス・ドイツのヒットラーを表題写真に据えたのには、理由があり
戦時下、よくまとめた「敵国現勢」ーただし、日本の生産量は発表されないので比較は現代になって初めて可能に こちら、戦時下の国策通信社として活動した社団法人同盟通信社外国経済部編集の「図説 敵国現勢」です。1944年3月28日発行で、B5判250㌻とボリュームもあります。 米国と英国を中心に、敵国の生産、配給、人的資源などをグラフや絵を多数利用して解説しています。序文では「一億の決意をさらに固くせん」との目的を示しています。 序文に続く編序では、一転して米国と英国の非道を並べて「公正妥当な戦争目的のあったためしがありません」と敵愾心を煽ります。(日本は自存自衛の戦いと書いてある。大東亜の話は?) 目次を見ると、かなり広範囲な内容で、これはこれで当時の日本側の敵国認識を知る貴重な資料となっています。 目次 そして、戦車生産の流れ作業といったカラー図解も入っています。 戦車生産工場の図解。緊張感を
経済制裁されたから自存自衛のため太平洋戦争開戦したというけれど、経済制裁される理由があったことは無視ー都合の良い戯言だ 太平洋戦争の開戦詔書には経済制裁で「自存自衛のため」やむなく戦端を開くことになったとあるので、一部の方たちから経済制裁をされたから仕方なく開戦した、と語られますが、経済制裁されるに至った経緯は、なぜか語ろうとしない。そこで、なぜ、経済制裁されるに至ったか、を整理してみました。 まず、大日本帝国は紀元2600年の1940(昭和15)年、コメは7分搗き以上の精米を禁止する、「ぜいたくは敵だ!」という標語が流れるという風に経済状態がひっ迫していました。それもこれも、1937(昭和12)年7月から続く日中戦争が終わりを見せない中、100万人もの軍隊を送り込んだ負担のためです。この年2月、何のため中国と戦争を続けているのかと問う斎藤隆夫衆院議員の「反軍演説」(参考・斎藤隆夫政治論集
太平洋戦争末期の日本陸軍、B29を相手にするため視力増強剤を開発ー飛行兵の疲労回復など、さまざまな研究の最後 米軍がサイパンを陥落させ日本国内への空襲が本格化、1945(昭和20)年3月10日東京大空襲で都内が灰じんに帰し、他の都市も次々に被害を受けていたころ、本土防空を担う陸軍は、飛行場を守るため、光を点灯させることなく飛行機を離着陸させることで、夜間のB29迎撃と艦船攻撃に役立てようと、夜間視力の増強を狙って訓練で目を慣らさせようとしました。が、うまくいきませんでした。 このころ、第七陸軍航空技術研究所が夜間視力の研究にあたっており、眼球網膜に含まれるビタミンB2の量が夜間視力と関係を持つことに注目していました。しかし、ビタミンB2の大量生産は困難で困っていたところ、朝鮮半島の近海で捕れるスケソウダラの眼球に多量のビタミンB2が含まれていることが分かったため、これを利用して1945年4
韓国の戒厳令事件に対し「日本ではクーデターが起きていない」という文字列を見たので、最大の二・二六事件を実況 2024年12月3日から4日にかけて起きた韓国のユン大統領による戒厳令公布と解除の事件に絡み、ネット上で「日本ではクーデターは起きたことがない」などという文字列が流れてきましたので、1936(昭和11)年2月26日から29日にかけて発生した大日本帝国陸軍部隊約1500人による日本最大のクーデターと鎮圧の戒厳令、そのどさくさで軍がやらかしたことを、当時の新聞と、当時内府秘書官長・木戸幸一による「木戸幸一日記」などを参考に紹介します。 ◇ 「一億人の昭和史・2」によると、2月26日未明、21人の青年将校が指揮する歩兵第一連隊、第三連隊、近衛歩兵第三連隊の下士官・兵1453人と民間人9人が首相、内相、侍従武官の各官邸と、内大臣、蔵相、教育総監の私邸、湯河原の伊藤屋旅館貸別荘を襲撃。内大臣・
2024年12月3日深夜、突然ネットが騒がしくなってきた。なんと、韓国でユン大統領が戒厳令を敷いたというのだ。「なんてこった!」が中の人の第一声でした。 X(旧ツイッター)より戒厳令布告。崔硯栄 @CHe_SYoung さんのポストより 情報を追跡していると国会周辺に大勢の市民が集まり、戦闘警察と軍が押し返されていることが分かってきました。そして国会議員が次々と登院。臨時国会を開き、戒厳令解除を決議。大統領もこれに従い、軍も引き上げました。戒厳令は不発に終わりました。 わたしは仕事でテレビもみておらず(だいたい、家にもテレビはないー価値がなくなったから)、新聞は夕刊がないので、もっぱらXで情報を入手しました。 軍の指揮官がまずは実弾なしで出動させたこと、韓国の有名俳優が後輩の特殊部隊員に命令への対処について説得していたこと、韓国軍では命令ではなく法に従えと教えられていたこと…。また、前大統
太平洋戦争開戦の詔書を、当時の価値観で解釈した本で読むー「天祐は歴史的事実」とかいっちゃってる人の文ですが… 1941年12月8日、宣戦布告前にマレー半島のコタバルへの奇襲上陸で始まった太平洋戦争ですが、戦を宣するのは天皇によって行われるというわけで、天皇による対米英への宣戦の詔書が出されるわけです。独特の言い回しであり、その意味を解釈するのは当時の人でも断片的でした。そこで、翌年1月2日の閣議で毎月8日を大詔奉戴日と決定し、この日には詔書を読むようにとしたので、より内容を正しく伝えようと、解説の冊子が国学院大学院友会によって作られました。 文学博士・山本信哉著「宣戦の詔書謹解」 著者の山本博士は神道の研究者でした。冊子自体は非売品で21㌻と小さいものなので、学内を対象に配布したのかもしれません。 大詔奉戴日が発刊のきっかけです 山本博士は序文から「禍つ国々をして慙死せしむべき大詔」と飛ば
「つらい真実 虚構の特攻隊神話」を読むー戦中派で特攻隊に自分も行くのが当然と考えていた筆者がたどり着いたのは、腐敗し官僚化した軍隊の姿でした 帰還を望めない体当たり攻撃。その第一陣の海軍の「敷島隊」「大和隊」が初めて出撃し、大和隊の予備士官久納好爭中尉(法政大出身)が第一号の特攻(戦果無し)をしたのは2024年からみて80年前の10月21日のことでした。その攻撃方法自体は、時として日本を含む各国で他に生還の手段がない状況下、自発的に行われることはありました。しかし、作戦レベルで大量に生還不可能な攻撃方法を実施したのは、太平洋戦争当時の日本だけでした。 筆者の小沢郁郎氏は、まえがきで「六歳で満州事変、一二歳で日中戦争、一六歳で太平洋戦争、二〇歳で敗戦、これが私の前半生である(略)昭和二〇年には海上にあって戦闘の一端にまきこまれていた私は、特攻隊であることを自他に誓っていた」と打ち明けています
こちら、1933(昭和8)年10月1日発行の新潮社の雑誌「日の出」付録「世界に輝く日本の偉さはこゝだ」は、近年の「日本スゴイ!」の元祖のような本として記録に値します。その中身を見る前に、この付録が出た時代を見てみますと、2月には国際連盟総会で42対1の大差で満州国を認めないとしたリットン調査団報告書の内容が採択されたことから国際連盟脱退を正式に通告、3年後の1936年に脱退となることと、1935年に海軍軍縮条約の期限が切れることから「35、6年の危機」と騒がれていたころです。 つまり、先の見通しを立てずに主要国として最初の連盟脱退となり、再び列強の建艦競争になればとても資金面で追いつけないことは明らかだが、世界に背を向けた以上、新たな条約の締結はできないー。そんな行き当たりばったりの政治・軍事・外交の状況下、不安を吹き飛ばすかのような企画をーと考えられたと容易に推測できます。 四六版160
ごみに見えるボロボロの紙ですが、大日本帝国陸軍騎兵第14連隊の献立表です。平時の兵営の食事から見えること。 収蔵資料は、軍隊生活を伝えるものもけっこうあります。軍隊の当事者となるのも庶民ですので、そのあたりの情報もそこそこ集めました。 表題写真と下写真は、満州事変当時、長野県上水内郡七二会村(現・長野市)から出征して千葉県津田沼の騎兵第14連隊に所属した兵士の関連書類に偶然残っていた献立表です。1932(昭和7)年の2月7日から20日まで1週間ごとの献立表が2枚、少し飛ばして3月20日から4月9日まで同様に1週間ごとの献立表3枚、そして献立表の書式が10日ごとに変更された最初の献立表1枚で、4月11日から20日までを記載。6枚合わせて45日分の兵営の食事が分かります。 6枚45日分の献立表 騎兵第14連隊は同年6月に満州へ派遣されますので、その直前の兵営での食事です。品目のみの記載とはいえ
関東大震災の直接の犠牲者、生き残ったのに虐殺された朝鮮人、中国人、日本人に哀悼の意を表します。そして、二度と過ちを犯さない未来を築くと誓います。 本日の101年前、関東大震災が発生し、10万5000人余の方が犠牲となりました。犠牲者の中には、地震では生き残ったのに日本人(自警団、警察、軍隊、普通の人)によって多数の朝鮮人(一説では6000人余、中央防災会議報告書は死者の1-数%と見込む)、中国人(600人近く)、日本人(福田村事件など)らが虐殺された数を含んでいることです。 大正12年9月2日付(1日発行)信濃毎日新聞夕刊東京が被害の中心と適格に判断手探りで取材した様子がうかがえる 山本内閣は、虐殺が表面化するのを恐れ隠蔽を貫きます。101年後の今日、東京都知事は虐殺という争いのない事実をあいまいに。朝鮮人の暴動はあったなど被害者を加害者に仕立てる暴言すらまかり通っています。当時でも疑惑の
大日本雄弁会講談社の絵本「西郷隆盛」は、地道な学問の大切さや天皇を大切にすることを伝えつつ、大どんでん返しが 中の人の知人で、長野県中土村(現・小谷村)で小さいころを過ごした方から、大日本雄弁会講談社の絵本を大量にご寄贈いただきました。母親が教師で、講談社の絵本を取り寄せてくれていたとのことです。 その中の一冊、1940(昭和15)年発行の「西郷隆盛」が大変興味深い編集をされているので、ご紹介いたします。 こちらは店頭の吊り下げポスター。売り込みもうまかった1ページ目はやはり上野の銅像 知人はまだ小さかったころで本の扱いが手荒く、表紙は無くなっていますが、ストーリー部分は完全に残っています。 身分の低い家柄でも、小さい時からよく勉強した西郷道場へも毎日通って剣道を稽古 しかし、ある時弱い者いじめをしている場面に遭遇し、注意したら相手が刀を抜いたので同じく刀を抜いて撃退したけど右腕をけがしま
1943(昭和18)年8月4日に政府の情報局が発行した「写真週報・第283号」は、別に発行した「改定時局防空必携」とい冊子の写真解説という位置づけでした。表紙には、地面に掘った溝に潜む3人の姿。防空法によって、逃げずに火を消すことを義務付けられた臣民の姿です。 「待避所」に入って空襲に備える姿 最後のほうにあった、表紙写真の説明を見てみましょう。 「待避所は、決して退避所ではない」と強調 「われわれの待避所は、決して退避所ではない。(略)敵焼夷弾が落ちたら最後、すぐさま飛び出してこれと戦うため、ほんの一時待機する所であることを忘れてはならない」とあります。焼夷弾なんて、一発だけ落ちるのではない、連続して次々と降って来る、それを飛び出して消せというのですから、命がけです。という訳で、表紙をめくったすぐに掲載している「時の立て札」をごらんください。 「命を投げ出し」とある 一番手に書いてあるの
近年、関東大震災時に行われた日本人による朝鮮人や中国人、社会主義者、無政府主義者、部落民、市井の日本人に至るまで行われた虐殺事件を矮小化するか、仕方なかったことと歪曲する言説が出てきた。それもこれも、今回も当選した東京都知事がK氏のトンデモ本そのままの質問を自民党都議から受けたことをいいことに、朝鮮人虐殺被害者の慰霊の式に弔辞を出さず、ヘイトスピーチ認定された団体に朝鮮人慰霊追悼の式と同じ時間の公園使用を認めたあたりから、自称愛国者ら「日本は悪くないもん!」と主張しなければすまない人たちに力を与えてしまったのが発端と思う。 当時の警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃らは「不詳の事変」を恐れ、特に赤池は戒厳令の発布を内田康哉臨時内閣の水野錬太郎内相に説得。治安維持に軍隊の力を利用するため、戒厳令を敷きたいと。しかし、戒厳令は第1条で「戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法
表題写真は、戦争末期に爆撃機B29からまかれた「紙の爆弾」、いわゆる「伝単」の一枚に書かれた文章です。戦争を継続しているのは軍閥であり、それを倒せば戦争が終わるといった趣旨で、一般民衆の決起を呼びかけていますが、特に効果はなく、結局政府首脳や天皇によってポツダム宣言受諾が決められ、民衆がかかわることなく戦争が終わります。 これに象徴されるのは、日本人の自主性のなさ、お上に従う根強い体質です。人間関係を上下でしかみれない、空気を読む、自分から行動しないのに文句はいう…。こうした日本人気質は、実は戦前から戦後、今日に至るまで変化していない様子です。 1948(昭和23)年8月10日発行の長野県内月刊誌「信毎情報」は、「忘れられる人々」と題し、グラビアで傷痍軍人の姿をルポしています。こちらは、バス車内の傷痍軍人の写真です。 足の不自由な傷痍軍人に席を譲る人もなく 「かつてわれわれをたたえた彼女た
戦時下でも人々の格差はさまざまにあったと言われますが、なかなか具体的な話は残らない物です。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲から2日後、2024年からみて79年前のきょう、1945年3月12日、長野県平野村(現・岡谷市)出身の童画家、武井武雄は、貴重な作品を「戦中気侭画帳」に残してくれました。 1944年9月から1945年8月まで、東京と故郷での暮らしを描いた 武井武雄も、東京大空襲を目撃しています。幸い自宅は燃えませんでしたが、建物疎開のため壊されることとなり、故郷に引き上げる目前のことでした。 東京大空襲は何ページにもわたって描かれています その武井武雄は空襲2日後に開かれた「日本少国民文化協会」の理事幹事長会議に出席するため、新橋駅にある東洋軒に出向きます。余談ですが、この協会も国策協力のための組織で、愛国イロハカルタをつくるなどしています。途中で見える風景は、一面の焼け野
2024年からみて91年前の1933(昭和8)年2月20日正午ごろ、プロレタリア作家の小林多喜二が築地署の特高課員に逮捕されます。そしてその日、午後7時45分に死亡し、その翌日のうちに遺体は自宅に戻されました。「内出血で紫褐色に膨れ上がった両方の股(もも)、これも靴で蹴り上げられた痣のある睾丸、焼き火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹み。ー警察は心臓麻痺だといいはり、あらゆる手を使って司法解剖を妨害した」(講談社・昭和2万日の記録、千田是也「もうひとつの新劇史ー千田是也自伝」より)とあります。 また、江口渙が、引き取った遺体を安田徳太郎医師とともに直接遺体を調べて以下のように記録しています。「すごいほど青ざめた顔は、激しい苦しみの跡を刻んで筋肉のでこぼこがひどい。(略)左のコメカミには今日の10円硬貨ほどの打撲傷を中心に五、六カ所も傷がある。それがどれも赤黒く皮下出血をにじま
記録するということは、その時点の事実を後世に伝える意味があります。 記録したいことがあるので、記録する。それは過去のことも現在のことも同じです。あらゆるところに記録が残れば、必ず誰かの眼につき、考えるきっかけになるでしょう。 2024年1月30日付の信濃毎日新聞の記事と、2月1日の各新聞社の報道を合わせてみますと、2004年に群馬県議会も全会一致で旧陸軍岩鼻火薬製造所の跡地に設けられた高崎市の県立公園「群馬の森」への設置を認めた戦時下の朝鮮人労働者の追悼碑を、群馬県が2024年1月29日より2月11日までの工期で撤去する工事を開始。1月31日には、追悼碑はがれきの山になっていました。設置当時の団体の後継団体に対し、撤去費用約3000万円を請求する予定とのことです。 撤去工事の期間中は公園への立ち入りが禁止され、報道各社は上空から工事の様子を撮影しました。また、工事前日には警察を大量動員して
最近、教育勅語を職員研修に使っている首長がいると聞きました。まあ、ものごとを知らないから、権威にすがらないと部下を指導できないから、明治政府の作ったシステムに頼るだけなのではないでしょうか。 ところで、大日本帝国憲法が発布されたのは1889年(明治22)年。「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」で始まり、天皇を君主として明確にしました。教育勅語が出されたのはその翌年、1890(明治23)年10月30日のことです。教育方針について長官会議で政府にまとめてほしいと言われたなど、経過はいろいろありますが、天皇の神格化の一環であったことは間違いないでしょう。ところがよくわからない為、表題写真のように、さまざまな時代にいろんな解釈本が出されています。下写真が、教育勅語全文です。 「教育勅語・戊申詔書義解」(明治44年・長野県南佐久郡校長会編)より 教育勅語は、大きく
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