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衆議院選挙2026
note.com/wakusei2nduno
最初に言っておくけれど、僕は高市早苗はまったく支持しない。保守イデオロギーが強すぎる点、具体的には歴史認識や人権問題(僕は同性婚法制化も選択的夫婦別姓も賛成だ)について僕は特に彼女には批判的で、「円安ホクホク」的な経済政策についてもほとんど評価できない。中国への「挑発」も安直で不用意なもので、高市早苗は宰相の器ではないと強く感じる。 流れに乗って高市早苗支持を打ち出して自分を強い側に置きたいと思う人は多いと思うけど、どう考えても高市早苗に対するブレーキ役は必要なはずで、高市早苗は支持しないが他よりはマシだから投票すると言った見えすいた言い訳で、マジョリティからのポイントを稼ごうとするプレイヤーに僕は軽蔑しか感じない。 目の前の数字目当てに高市早苗側につく誘惑をきちんと立ち切って、かつ今回のリベラル崩壊を正面から受け止めて、ゼロから立て直していくことが必要なのではないかと僕は思う。 その上で
今日は「場所」について考えてみたい。昨年、僕の主催する研究会「庭プロジェクト」で、JR東海道線新駅の開設に伴う藤沢市と鎌倉市にまたがる村岡・深沢地区の再開発についてのリサーチを行ない、意見書を発表・提出した。誰でも閲覧できるように、PDFファイルを公開しているので、興味がある人はぜひ目を通して欲しい。 このリサーチの過程で僕が「実感」したのは、まず「市民」とは誰かということをちゃんと考えないといけないということだ。とりあえず「市民に開かれたらまちづくり」みたいな枕言葉はあらゆる土地で、最低限のアリバイ的に濫用されているわけなのだが、そういうケースで「手本」として引用されがちな「成功例」の実態は、悪い意味で「意識が高い人たち」の集まりに閉じてしまっているケースが案外多い。経済的に豊かで、文化資本が高く、Facebookでソーシャルグッドなイベントへの参加を「報告」するのに余念がない人たちをエ
政治の話が続いて申し訳ないが、さすがに急転直下すぎるので書きたいと思う。僕は悲観主義的なところがあって、今から「よくない」想像をしている。だから想像通りになってほしくないと思っている。そのことを踏まえた上で読んでほしいのだけど、僕は中道改革党は「惨敗」すると思っているのだ(僕は応援するし、比例は今のところここに入れるつもりだが)。 理由はいくつかある。まずはイメージ的にフレッシュな装いのある(麻生太郎の象徴する古い自民党の派閥政治の延命であるという側面は、いまのところうまく隠蔽され多くの国民が騙されている)高市早苗政権の「敵」として、世代間格差是正に消極的なイメージの強い立憲民主党と高齢化の止まらない公明党の同盟は、その名に反して「改革」をせき止めるヒール役として利用されやすい組み合わせになってしまっている。 そして、二つ目が「にもかかわらず」公明党の選挙協力で小選挙区が地滑り的に傾き自民
今日は「炎上中」の『果てしなきスカーレット』について考えてみたい。こちらの座談会動画で詳しいことは語っているのだけど、このnoteでは座談会の収録を通じて考えたことも踏まえて掘り下げてみたい。 僕のこの『果てしなきスカーレット』への評価を端的に述べてしまうと、「作品」として成立していないというものだ。 いや、物語が安直なこと自体はまだいいと思う。割と序盤とか、出てきて割とすぐにスカーレットが復讐心を乗り越える物語になるのも、スカーレットは死んでいなくてヒジリが死んでいるのも、悪の四天王の誰と誰が改心して味方になるのがキャラクターデザインの時点でわかるとか、そういうのもまあ、いいとは思う。こうした安易さを通してはじめて描けるものもあるからだ。 しかし問題はこの映画がそうなっていないことだ。スカーレットが復讐心を乗り越える……的な内面の葛藤を描くなら、善玉と悪玉の二分法でキャラクターを配置する
三宅香帆さんの新刊『考察する若者たち』を読んだ。事前の予測としては「考察する若者」たちの側に立った三宅さんが「批評」にしがみつく旧世代(僕とか)をなで斬りにする本を想像していたのだが、いざ読んでみるとおそるべきことにむしろ「批評」世代の側に立つ三宅さんが「考察する若者」を批評する内容になっていて、愕然とした。三宅さんが若者に苦言を呈したり、歩み寄ったりする老害ポジションに立つなら、僕なんかもう棺桶に半分足を突っ込んだ立場からしか書けないと思うのだが…… さて、そんなことはさておき今日はこの本を読んで考えたことを簡単にまとめてみたい。 同書で三宅さんは「報酬系の刺激」という言葉でユーザーの行動原理を説明している。「考察」が流行るのは「作者の意図」という「正解」がはっきりしているゲームをクリアすることで明確な「報酬」が与えられるからだという。 それはその通りだと僕は思うのだけど、この「報酬」と
講談社のK氏から、これ以上『庭の話』のプロモーションに労力を割けないというメールが来た。発売から1年弱、事前に決めたプロモーションをほとんど当時の担当がサボタージュしたので、仕方なく僕が自腹でここまで数字をつくってきたのだけど、そろそろ限界なので講談社ももう少し動いて欲しいと連絡したら、「リソースがない」ので協力しない、という返事が戻ってきた。 心が折れた。 僕は会社から年収1000万円以上を保証されている講談社のエリートサラリーマンではなくて、働いた分しか金にならない自営業者だ。その僕が、担当編集がまったく動かない(マジで普通にサボっていた)ので仕方なく自前で膨大な資金と労力を使ってプロモーションをして、自分の取り分は印税10%しかない講談社の本を売って来た。 それは自分の作品が「かわいい」からやって来たのだけど、その僕に自分たちが「忙しい」からプロモーションに協力したくないと平気でメー
この二日間は久しぶりの仕事のない休日だったのだが、自称リベラル?な人に罵倒されていることに気がついた。まあ、年に何度かあるタイプの罵倒なのだけど、要は僕が箕輪厚介さんや音喜多駿さんと仲が良いから、僕が政治的にリベラルな主張をしていても「敵」認定して攻撃してやれ、という例のアレだ。 今回は箕輪さんがどうもコンビニでのトラブルについて、外国人差別を助長する投稿をしたようで、その流れでなぜか僕まで攻撃されることになった。僕はご存知の通り近年の排外主義については問答無用で批判的なのだが、どうやら「宇野は箕輪と仲良しだからこの件も庇うだろう」と思い込んで罵倒されたのだ(ちなみに僕は箕輪さんの事件を自分が罵倒されたことで初めて知った。普段は仕事の告知以外Xをほぼ立ち上げないので……) さすがに愕然とした。実際に僕が箕輪発言を擁護したならともかく、「友人だから庇うに決まっている」という憶測と思い込みに基
一昨日のRONDANFESでは高市早苗総裁誕生の当日だったこともあり、総裁選の結果に発狂というか、これを機会に「俺様の気難しさと深さを若者たちに訴えたい」と考えて大はしゃぎした限界左翼おじさんの(実質的には無内容な)大演説を強制的に聞かされて、心底ウンザリした。 そして昨日は昨日で、高市早苗総裁誕生によっ大はしゃぎでリベラル派SNSアカウントにクソリプを送りにいくネトウヨ&冷笑おじさんたちを複数目にして、やはり心底ウンザリした。 どうもこのタイプの人たちは、自分たちが応援している高市早苗が総裁選に勝利したことで、自分たち自身が勝利したように喜んでいる。まぁ、それは贔屓の野球チームが優勝したようなものなので別に構わないのだけど、それだけではなくなぜか自分がで強く大きくなったような気持ちに浸っている人が多数散見された。 実際、僕もまったく面識のない人から突然、「お前の仕事なんて全然大したことが
これはサブタイトルにある通りかなりの規模による調査とその統計分析によって現代の日本人の政治傾向を洗い出したもので、政治思想史に明るい橋本努さんが加わることによって、かなりクリアに新しい地図を書き出すことに成功している。 一連の研究調査に芹沢一也さんのシノドス・ラボが大きく貢献していることが後書きから窺われ、本の内容もそうだが、こういった研究活動が一般書として出版されていくルートの方法論としても、とても注目されるべき本だと思う。 さて、今日はこの『新しいリベラル』についても、僕の感想を述べてみたい。おそらくこの本を読んで、多くの人が体感的にこの「新しいリベラル」と橋本さんたちが呼んでいる層のボリューム感を理解できると思う。 僕自身、震災後に出版した『PLANETS vol.8』くらいの時点で、既にこうした現役世代の「新しいリベラル」というものを問題にしていた(手元にある人は読み返して欲しい。
最近、知識社会の弊害問題についてよく考える。これはマイケル・サンデルやデイビッド・グットハートにより、近年指摘されている問題で、平たくかいつまんで言えば、現代社会は頭脳労働者が優遇されすぎて、感情労働や肉体労働が不当に低く評価されているというのが彼らの問題意識だ。本来は人間の能力の一側面でしかない情報処理や論理能力、知識などが過大評価され、そのことがこれらの能力「ではない」能力が要求される人たちの尊厳を傷つけているというのが彼らの主著だ。 僕の関心の中心が情報社会論にあるので、そこに惹きつけて考えると、たしかにそうかもなと思うことは多い。 論客みたいなキャラに憧れて大して詳しくもない時事問題に、どこかで見かけたプロの意見を丸パクリしてドヤ顔で言及したりする人はたとえばXやソーシャルブックマーク系のサービスではタイムラインの「潮目」や場の空気を形成する層になっている。要するに、今日のアテンシ
最近よく考えているのだけど、僕はいま「飲み会」文化に苦しめられている人たちのためにできることを探して、具体的に動き出したいと思っている。 残念なことだけれど、この国にはいまだに職場や、同じ業界のあつまりなどで上下関係に基づいた「飲み会」文化がしつこく生き残っている。「飲み会」は仕事じゃない。しかし「飲み会」に参加しないと、職場の人間関係がうまくいかなくなるのではないか、最悪の場合はイジメられてしまうのではないかという不安から、イヤイヤ「飲み会」に参加してしまう人は少なくない。せっかくの仕事が終わったあとの時間と、自分が一生懸命稼いだお金を他のことに使いたいと思っても、それを半強制的に奪われてしまうのだ。 この「半強制的に」というのがポイントだ。 多くの「飲み会」は表面的には「来たくないなら来なくてよい」とされている。しかし多くの場合、参加しないと共同体の中でも「浮いて」しまうのが分かってい
明日8月1日から新しく本屋を始めることになる。その名も宇野書店。大塚駅北口から歩いて5分のところにあるオフィスビルの2階にオープンする。床面積は150平米で、約6000冊が並ぶ。 きっかけはひょんなことで、僕が1年ほど前にふとFacebookに宇野書店をやりたいと書いたところ、このビルを所有する東邦レオ株式会社の吉川稔社長に「やりませんか」と声をかけてもらったのだ。一瞬何が起こっているのか全くわからなかったが、とりあえず「やります」と返事をした。あれからよく1年、ついに宇野書店が実際にオープンすることになる。 僕が前から本屋をやりたいと思っていたことには、もちろん理由がある。『庭の話』で書いたように、これからは「庭」的な、個人がプロデュースし、管理する場所が「勝手に」公的に開かれている場所が、町の公共空間として重要な役割を果たしていくと僕は考えているからだ。 そして同じく『庭の話』で書いた
先行公開された劇場版『ビギニング』について以下に書いたように、この『ジークアクス』は初代『機動戦士ガンダム』の二次創作(架空戦記の架空戦記)である中高年ホイホイのパートと、マチュやニャアンといったティーンのヒロインたちの冒険譚のパートの二層で構成されている。 前者を「正史」がどのように改変されたかを解き明かすための「考察」欲を誘うパートだとするのなら、後者は前者(架空戦記考察)に耽溺して何もできなくなっている「戦中派(オタク第一世代から第二世代=団塊ジュニア)」の現状を打破する可能性として対置されたパート、つまり「批評」的なパートだと言えるだろう。 単純な図式で提示するなら前者を庵野的な、後者を鶴巻・榎戸的なものと考えるとわかりやすいのだろうが、(当然のことだが)鶴巻・榎戸にも前者の要素は多分にあり、固有名詞で区別するよりは彼らの世代の二つの側面、つまり自分たちの楽園を作り上げ、砂場あそび
先日、僕の主催しているPLANETS Schoolで、占部まりさんと議論した。テーマは「これからの医療とコミュニティ」だ。占部さんは宇沢弘文の長女であり、宇沢経済学の「社会的共通資本」という観点を交えながら医療とコモンズやウェルビーイングといった概念とのかかわりについての議論を展開してくれた。詳細はPLANETS Schoolの動画アーカイブを確認してほしいが、今日はそこから派生した別の議論について考えてみたい。 会員募集中です!そもそもの問題として、僕は「ウェルビーイング」という発想が実は苦手だ。もっと言ってしまえば、批判的ですらある。というのも、この「ウェルビーイング」という発想自体が、愚行権を軽視しているというか、「幸福」というものについて根本的に取り違えてしまっているところがあるのではないかと、僕にはどうしても気になってしまうからだ。 この「ウェルビーイング」という発想はどこかで、
今日は吉田尚成さん、奥野克己さんと三人でトークイベントがあった。僕の『庭の話』と、おふたりの共著の合同出版記念のトークセッションだ。そこでいろいろ考えさせられることがあったので、記しておきたい。 3/30 「持たない森」と「庭」──私たちはどこで、どのように生きるのか? 『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか?──人類学が教えてく 全国の丸善、ジュンク堂書店で企画されたオンラインイベントの視聴チケットを販売。 書籍付きチケットや、サイン本付きチケットも online.maruzenjunkudo.co.jp 結論から述べると、人はプナンのような「資本主義の外部」にいくら通っても資本主義的な承認欲求からは逃れられないし、いくらロマンチックに演出して都合の良い「資本主義の外部」をカードとして切っても、いや、そういった特定の場所を「絶対的な外部」や「都合のいいユートピア」として消費してしまう
さて、先日ニッポン放送の吉田アナウンサーと成馬零一さん、石岡良治さんと完結したばかりのTVアニメ『全修。』についての座談会を収録した。 詳しくは後日アップロードされる動画を見てもらいたいのだが、ここで今日はこの収録を経て考えたことを少し、展開してみたい。それは要するに、90年代のあの当時のJRPGの影響下にあるチープなファンタジー小説群やそのアニメ化作品ーー『ロードス島戦記』や『風の大陸』といった比較的シリアスなものから『スレイヤーズ』や『魔術士オーフェンはぐれ旅』のようなコメディタッチのものまでーーの背負っていた役割のようなものだ。『全修。』はヒロインのアニメ監督(ナツコ)が、少女時代に好きだったアニメ映画(『滅びゆく物語』)の世界にワープして活躍する……という内容だ。この『滅びゆく物語』という劇中劇的な作品が厄介で、設定やビジュアルは前述の90年代のチープなファンタジーアニメのものを踏
僕のことを多少知っている人ならすぐに想像がつくかもしれないが、僕は町内会とか、それに紐づいている地域のまつりのようなものが本当に苦手だ。一応言っておくが、僕は両親ともに東北の山村の出身で、こういったムラ社会的な人間関係とか近所付き合いとか伝統行事の類をたっぷりと見知ってきている上で言うが、少なくとも現代的な個人の内面の自由やフェアな人権感覚との親和性は最悪だと言っていい。 だから僕は最近の「意識高い系」の村おこしの類の動きを見ているとモヤモヤすることが多い。それは要するに、港区や渋谷区のキラキラした陽キャたちが、田舎に出かけていってムラ社会の陰湿な人間関係のオモテの部分だけを見て「ここに本当の暮らしがある」みたいなことを、自慢気にフェイスブックでシェアする……といった「あのパターン」のことだ。 それって僕みたいな「田舎の陰キャ」からしてみれば、都会の陽キャと田舎の陽キャのカースト上位者同士
その一方でリスナーから「友達いなそう」とか「気持ち悪い」とか、たくさん罵詈雑言をいただいた(どうやら僕の早口が嫌われたらしい)。しかし『庭の話』の関係で、この3か月は色々なラジオやyoutubeの番組に出ているのだが、こんな中傷を受けたのはこの番組だけ。TBSラジオが育ててきた「リベラルなリスナー層」ってなんなんだろう……と考えてしまう一件だった。 他にも、この種の罵詈雑言をたくさんいただいた。早口で、聴きづらいと言われるのはまあ、仕方ないが(聞き取れないんじゃなくてあなたの思考が鈍くて追いつかないだけでは?くらいの嫌味は言わせてもらいたいが)、さすがに「気持ち悪い」とか「友達いなさそう」とか「飲みにさそわれないだろう」とか、言われる筋合いはないと思う。特にひどいと思ったのは、この人だ。なんと、僕が一言「正義」という言葉を使っただけで、「偽フェミ男」と罵倒されたのだ。ちなみにジェンダー関係
もう10年以上前になるが福島瑞穂さんたちと「リベラル再生会議」という連続イベントを開催していた。当時僕は石破茂さんと対談本を出したばかりだったので節操がない、と怒られたのだが、よいシリーズだったと思う。と、いうかいろいろな立場の人と議論することの何が問題なのか、まったく分からない。 あれから10年以上経って、今僕はリベラルの側から「あいつは敵だ」と言われ、嫌がらせを受けている。僕はマイペースで政治と付き合って、いち市民として考えているだけなのだけどこの10年くらいで、リベラルの側から罵倒されることが本当に増えた。 僕のほうはむしろ、政治的には安倍晋三政権に批判的だったために保守の側を批判するケースが増え、森友問題やアパホテルの歴史修正主義問題を追求したことでテレビの仕事も失ったりもした。しかし、同じくらい、あるいはそれ以上に「リベラル」から疎まれるようになった。 理由は単純で、この10年で
実はここ数日、発熱していて騙し騙し仕事をしていて気づくのが遅れたのだが、いまだに「例の件」で罵倒されている。というか、自分が把握しているよりもしつこく罵倒されていたのに気づいた。 「例の件」とは先月末に荻上チキさんの「session」に出演したときのことで、そこで「リベラル」を自認するTBSラジオのリスナーから僕は「気持ち悪い」とか「友達いなそう」とか、どう考えても議論と無関係な中傷を番組ハッシュタグでたくさん書かれた。僕が番組で話した内容に対しての批判的な意見ならいくら書かれても仕方ないと思うが、容姿を貶されたり、「友達いなそう」とか罵倒されたり、言ってもないようなことを捏造されたりする筋合はさすがにないと思う。笑 明らかに当日は「みんながこいつを叩いてOKだから叩いてOK」という「空気」がタイムラインにできていて、自称リベラルなリスナーがこの態度はさすがにないんじゃないのかと苦言を呈し
この本は僕のこれまでの本の中でもいちばんの難産で、『群像』の連載時から後半はほぼ書き変えています。(この辺の事情は、以下の記事に書いています……。本当にご迷惑をおかけしました。) なので、本当にギリギリまでブラッシュアップしていて、そのせいでプロモーションが十分に準備できなかった……という悲しい事情があります。 そこで、今回はこの本についての自己解説のようなものを書いてみたいと思います。この『庭の話』はここ数年の僕の集大成的な一冊です。なので、この本について解説すると僕のこの数年の仕事が網羅できるようになります。2020年以降の『遅いインターネット』以降の情報社会論的な仕事や、都市開発についての研究会の主催(庭プロジェクト)や、『モノノメ』などの編集者としての仕事で得たものが、この本には集約されています。なので単に内容を紹介するだけではなくて、こうしたさまざまな仕事をどう一冊の本に組み込ん
先日、吉田尚記さん、石岡良治さん、有田シュンさんと『響け!ユーフォニアム』についての座談会に出席した。これはテレビアニメ版の完結編(『響け!ユーフォニアム3』)の最終回に合わせた企画だったのだけど、この座談会は原作小説も含めたシリーズ全体を語るものになった。今日は、前回この作品を取り上げた記事の続きも兼ねて、改めてこのセッションを通してこの作品について考えたことを書いてみたい。 さて、前回と座談会の議論をざっくりまとめるところから始めよう。この『響け!ユーフォニアム』という作品が、このクオリティで完結したこと、この10年の京都アニメーションの代表作になったことは、結果的にオタク文化史的な「意味」を発生させてしまっている。 『涼宮ハルヒの憂鬱』があの時期にアニメ化され、そしてEDの「ハルヒダンス」が一つの時代を象徴していったことはオタク的な感性の「建前」と「本音」のバランスが一方に崩れていく
僕が江東区の自民(維新)支持者だったら、(いろいろ文句はあるが結局)乙武さんに入れるしかないのではと考えるその理由 さて、今週末には衆議院の補選が3つある。与党自民党の「裏金」問題と、選挙区の情勢を掛け算すると、3選挙区とも立憲民主党が勝つ可能性が高い。それは妥当な結果で、長期的にはこの国の民主主義にプラスの効果をもたらすかもしれない。もちろん、島根のあの人が当選するのはむしろ旧自民党の封建的な土着支配を強化するだけじゃないか、とかいろいろな見方はあるのだと思うけれど、そういったことは僕よりも詳しい人がすればいいと思うので、置いておく。 さて、その上で考えてみたいのが東京15区だ。ここには、僕の友人の乙武洋匡が出馬している。よりにもよって、都民ファーストの副代表に就任して……ということなのだけれど、これについては出馬会見直後の動画で、本人と話したのでそちらを観て欲しい。 そして下馬評を見る
三宅香帆さんのベストセラー新書『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』を先日読み終えた。世評通りの力作で、日本の近代史における「労働」と「読書」の関係が手際よく整理されており、とても勉強になった。 この本を通じて、多くの「働いているので、本が読めない」人たちが勇気づけられて欲しいと、僕も思う。もちろん、懸命なる読書家のみなさんは既に100%理解されていると思うが、「読書論」や「教養論」を手に取り、それを読み、SNSに感想を投稿して満足してしまっては、「文化的な自分」という自己イメージを消費するだけに終わってしまう。 せっかく背中を押してもらったのだから、これから「働きながら」本を読みまくっていかないと勿体無い。最初に手にとるべき本は何がいいだろう? ごく自然に考えて、同じ著者、つまり三宅さんが翌月に発売する初の文芸批評本……あたりが妥当だと僕は思う。 さて、宣伝はこれくらいにして、本題だ。僕
要するにこれは揚平さんの短・中期的な日本の社会、経済予測をベースにその対策を社会のレベル(日本をどうする)と個人のレベル、つまり現役世代の自己防衛(私たちはどうする)という2つの議論を併置する……という講座で、いままで僕がまったくやってこなかったタイプの講座になると思う。僕は割といい加減に生きてきたところがあり、あまり人生をうまくやる、セーフティにする……といったことに関心をそれほど払ったことがないのだけれど、少し考えるところがあって、実験的にこういったタイプの講座を企画してみることになった。 今日はその理由のようなものを書いてみたいと思う。そして例によって結論から述べると、僕はここ数年でこの国は、(みんなまだ、それほどハッキリと口にしていないが)この国は(少なくとも向こう数十年の間についていえば)「もうダメだ」と感じていて、それぞれがもう社会をどうするかではなく、自己防衛のフェイズに入っ
先週末に『ゴジラ-1.0』を観てきた。僕は山崎貴監督の、戦後日本的な「世間」の最小公倍数をマーケティングするような映画の作り方が苦手で、この映画の期待値もそれほど高くなかった。 しかし期待値が「-1」だったからこそ、鑑賞後の満足度はとても高かった。本作の完成度の高さについては、他の人がいくらでも書いてくれるだろうから僕は触れない。僕がここで書きたいのはこの映画が「よくできている」からこそ結果的にえぐり出してしまったものについて、だ。 結論から言えば、日本人はまず自分たちのアジアに対する蛮行を今一度正しく反省し、その上でアメリカに対しその戦時中の民間人虐殺についてしっかりと抗議するべきだ、というのがこの文章の結論だ。 誤解しないで欲しいが、この映画が提示しているのは素朴な反戦的メッセージと、巻き込まれてしまった人々への同情、そして作中の言葉を借りれば「貧乏くじを引くことになってしまった」こと
僕は基本的に「逆張り的なポリティカル・コレクトネス批判」を支持しないようにしている。理由はそれらの多くが、短期的にアテンション・エコノミーに勝利するためのパフォーマンスに過ぎず、長期的な効果を考えられていないからだ。ある作品の表現が不当に「狩られ」ないための闘争では「このように表面的な「叩きやすいもの」への難癖ではなく、実質的に差別や暴力を解消するためにこうした方向で運動しよう」という対話が本当は必要なところを、「ポリコレ」そのものへの保守反動的な批判に加担してしまうことが多い。いろいろ理由はあるのだろうが、そのうちの一つが、そのほうがアテンション・エコノミー的に「コストパフォーマンスがいい」からだろう。 実は僕が左派ポピュリズムと距離を置く理由も同じだ。 彼らもよく、「けしからん」誰かの発言を指弾して正義の名のもとに集団リンチの快楽を手にしている。僕は権力や大資本に対して声を上げることは
先週末の土曜日、つまり公開翌日に宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』を見てきた。今回はその鑑賞直後の雑感をかんたんに(といっても、それなりの分量にはなるだろうが)まとめたい。本作はおそらく宮崎の引退作になる可能性が高く、これまでの作品世界の総括的な内容になっている。したがって、余すところなく批評を試みようとすればそれは「そもそも宮崎駿とは」というところから始めなくてはならず、本一冊分の分量が必要になる。だからこれはあくまで、公開直後の鑑賞の雑感という前提で目を通してもらいたい。 『母性のディストピア』の答え合わせ? ここで僕が指摘したいことは大きく分けて2つだ。それは宮崎駿の作家としての自我の肥大が、彼の作品世界をより深く、広くするのではなくむしろ淡白かつ安易にしてしまっているのではないかということ、そして彼の圧倒的な存在感はそのことを誰も指摘できなくしてしまっているのはないかというこ
村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を、発売当日に電子書籍で購入してKindleで一気に読み通した。結論から述べるとこの作品は近年の、というか『1Q84』の〈BOOK3〉以降の自己模倣と内容の希薄化の延長にある作品で、彼の長編の中でももっとも記憶に残らない薄弱な作品の一つになってしまっていると言わざるを得ないだろう。 僕は半年前に出版した『砂漠と異人たち』で、この村上春樹について20世紀後半を代表するパーソナリティとして扱い総括的な批評を試みた。そしてこの『街とその不確かな壁』という小説は僕の『砂漠と異人たち』での村上についての総括から、半歩も踏み出していないように思う。それは、とても残念なことだ。 FacebookやTwitterで実績はないけれど自分を知的に見せたくて仕方がない人たちとは異なり、批評家とは天の邪鬼な生き物で常に作家に、正確には作品に「敗北」したがる生き物だ(そもそも
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