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万人に手渡せる「人生を変える運命の一冊」という魔法のような本は無い。人にもよるし、タイミングも重要だ。 ただし、人生の見方を一変させるような本はある。 強制的に生き方を振り返り、「これでよかったのか?」という疑問を投げかけ、自分が自分に吐き続けてきたウソと向き合わされる。 ずっと正しいと信じてきたことが間違いで、それを認めざるを得ない状況に追い込まれる。素直になればいいのに、できない。過ちを認めることは、それまでの人生を否定することになるから―――そこで、どういう決断をするか? 有名なのはスクルージだろう。 ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる、高慢で傲慢なエゴイストだ。財を築き、社会的にも成功しており、「正しい人生」を生きてきたと信じていた。 だからこそ、過去・現在・未来を強制的に見させられ、自分が積み上げてきたものが誤りだったかもしれない―――その可能性を突き付けられる。これ
ラテンアメリカ文学と聞いて、身構える必要はない。 「マジックリアリズムが難しそう」「『百年の孤独』で挫折した」という声を聞くが、難しいと感じてしまうには理由がある。読み方が、少し違う。 私たちは普段、以下のように小説を読んでいる。 誰が語っているのかが明白だ 出来事には原因と結果がある ラストには何かしらの意味が回収される もちろん例外はあるけれど、王道があってこその逸脱として存在している。こうした暗黙の約束があるので、理解できた、納得できたという感触が残る。安心して読めるのだ。 だが、ラテンアメリカ文学作品は、現実と虚構、過去と現在、語り手と聞き手の境界が、はっきりと区切られない場合が出てくる。話者が入れ替わったり、いつの話なのか、夢か現か分からなくなったりする。 「結局のところ、何がどうなったのか?」という意味を目指すと、手ごたえが無くなり、フラストレーションが溜まる。いわゆる「あらす
この場所に見覚えがあるだろうか? By Bill Magritz, CC0, Link 「あの部屋」とか「黄色い空間」と呼ばれ、ネットで有名なのだが、実際には「どこでもない場所」になる。友達と映画を撮影していたら、突然、見知らぬ場所に迷い込む。 不気味な迷路空間を彷徨ううちに、異形の存在に見つかり、逃げ惑う。(よせばいいのに)振り返って撮ろうとしたり、(やってはいけない)暗がりに隠れたりする―――その結果、残された映像が発見されたという体(てい)のyoutube作品だ。Found Footage形式とも呼ばれ、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』風のホラーになる。 The Backrooms (Found Footage) 現実の裏側に、無限に続く無人の空間がある。ひとたび迷い込んだら、理由も目的も分からないまま彷徨う―――こうした空間をリミナルスペースと呼び、人の恐怖心を掻き立てると言われ
現代文学の金字塔とも呼ばれるピンチョンの『重力の虹』は、その難解さでも有名だ。 「3回読めば分かる」とか「何回読んでも難解だ」とも言われている。上下巻1450ページの鈍器本に1万円出して3ヶ月かけてヒーヒー言いながら読んだ(こうなることが分かってて読むのを、ピンチョン・マゾヒズムという)。 しかし、最後のページにたどり着いたが、果たして私は本当に「読んだ」と言えるのか? 意味を解体し、理解を拒む展開について、「分かった」とは、とてもじゃないが言えないものの、「面白かった」と言い切れるのか。どんなに頑張っても1時間に20ページの遅々としたスピードだったが、これは普通なのか。百科全書的に編みこまれた知識の断片には深い意味があるのか、あるいは衒学的な目くらましに過ぎないのか。 作品に仕込まれた謎よりも、そもそもこの読書体験って何だったんだろうね? そんな疑問を抱きつつ、読書会に参加した。 偶然か
イメージの濁流に呑み込まれ、もみくちゃにされ、ヨロヨロと頁を繰り、茫然としながら叩きのめされる読書、それがピンチョン。 ラーメンに例えるなら「全部入り」の百科全書なり。 第2次大戦末期のヨーロッパを舞台に、神話や歴史に始まって文学、数学、化学に物理学、冒険と暴力と陰謀とパラノイア、ガチ怖ホラー、泣かせるメロドラマ、エロス100%の恋愛モノ、スカトロSM満載で、果てしなく続く洒落とギャグと注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュフォワードに翻弄され、読解不能。 どれくらいもみくちゃにされるかというと、人物の相関図でイメージが湧くかもしれぬ。「主要」登場人物は122人で、関係図を作ってみた。 Gravity's Rainbow / Character Network (interactive) 丸い奴は人物で、〇の大きさが(私が考える)重要度、〇の色が陣営(家族や組織、国家
書きたいから書いている。だが、それなりの物量を「本」にする必要性はあるのだろうか? あるいは書いたものが「本」にならざるを得ない必然性はどこから来るのだろうか? 糊口をしのぐ、評価を得るなど、現実的な理由は多々あるが、ブログや動画でやれるし、コスパ的にはそっちの方がよさそうだ。それでもなお、「本」(特に紙の本)にしたくなるのはなぜか。 まず、形として残すためにある。 小説であれ批評であれ、一連の思考をFIXさせる必要性から、「本」という完成品になる。これがブログや電子書籍だと、消える。サ終により丸ごと消える電子本は、諸行無常の響きしかない(このブログも一緒やね)。だが、紙媒体なら物として存在することができる。 そして、物体としてあるから、手渡すことができる。 いくらでも改訂できるファイルではなく、印刷して確定した一冊を、パッケージとして渡すことができる。拡散は電子の方が効率的かもしれないが
他人の悪夢を覗いているうちに、私自身がそこに居る。 夢だから、断片的で支離滅裂で、因果も時系列もデタラメだ。なのに、そこで起きた感覚だけは、べっとり肌身に粘りつく。 忌まわしい、ふりほどきたい、逃れたいのに、なぜか顔を近づけて嗅ぎたくなる。歯をむき出しにして齧りたくなる。語りかける口調に、思わず耳を傾ける。知りたくない(最悪の)展開を、目を凝らして待ち構える。嫌悪感と接近衝動の両方に衝き動かされるように読む。 そういう、中毒のような効果をもたらすのが、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』だ。読んだことを後悔するような劇薬小説だ。 14年前 、 7年前 、そして今回で3度目の毒書なのだが、何回読んでもわけわからぬ(でもそれがいい)。だが、3度も悪夢につき合ってきたので、どんなやり方で、私の精神に大ダメージを与えているのか、その手口は分かるようになった。免疫というか耐性が付いたのかもしれぬ。 さらに
過去のデータを分析して、その傾向から何かしらの因果や法則を見出し、再現性を計測する。この営みを科学という。営むターゲットが素粒子や遺伝子や恒星など、適用先によって呼び名は違えども、本質は一緒だ。営まれてきた研究成果や論文は膨大な数となり、かつ、指数関数的に積み上がっている。 では、適用先を「科学」そのものにしてみたら?つまり、「科学の営み」そのものをターゲットとし、論文、プレプリント、助成金申請書、特許を過去データとし、研究活動の痕跡データを解析する。 なにしろ登録された論文だけでも5,800万件にも及ぶ。論文の最初の1ページをプリントアウトして積み上げると、キリマンジャロの頂上(標高5,895m)まで達する。これを「科学の山」という。 うち1,000回以上引用されたのは頂上付近の1.5m で、ほぼ頂点となる上から1.5cmは、1万回以上引用されたものになる(ちなみに、五合目以下の半分は、
「運転手」の問題は、どちらを選んでも「加害する」になる。そのため、「1人か5人か」を選ぶ消極的義務の中での問題となり、義務違反を最小化するために1人を犠牲にするという理屈は<一応は>成り立つ。 一方、「歩道橋」バージョンは、「善行する(5人を助ける)」と、「加害する(1人を殺す)」の衝突が起きている。 この場合私たちは、それぞれの義務を果たす、あるいはそれに背くといった、行為の性質の違いを考慮に入れなければならない。「歩道橋」の一人の加害が許されない理由は、異なった義務が衝突する場合、より厳格な消極的義務が優先されるからではないか。 『政治哲学講義』p.93より たとえ5人を見捨てることになるとしても、「加害しない(消極的義務の遵守)」ことを優先する。作為の方が不作為よりも責任を問われることは、医療倫理の「何よりも害を与えてはならない(Primum non nocere)」にも繋がるという
伝説的なエンジニアであり、現代のソフトウェア文化の土壌を作った存在でもあるジェラルド・M・ワインバーグの主著とも言える『コンサルタントの秘密』を読んだ。 タイトルに「コンサルタント」とあるけれど、これはコンサルタントの本ではない。もっと広くて、「(自分も含む)誰かに相談されたとき、どう考えるか」をまとめた本だ(この「誰か」は自分も含む)。 コンサルタントは肩書きではなく、「どのように人と関わるか」が詰まった一冊といえる。彼の経歴上、プログラムやシステムの話が登場するが、あくまで面白いエピソードとして挙げているだけ。 様々なエピソード(だいたいトラブル)を元に、「コンサルタントの法則」として紹介してくれる。これ、実践できている人は当たり前すぎてピンとこないかもしれないが、「これを法則と呼ぶくらい重要な考え方である」ことに気づかない人には宝の山だろう。 トム・デマルコの書籍を通じて知り、自分の
AIに問いかけると、返事が返ってくる。このときAIは「意味」を理解しているのか? ある人は、「それらしい回答を統計的にでっち上げているだけで、意味なんて分かっていない」という。またある人は、「統計的に近い意味を持つ言葉から生成しているから、意味を分かっていることと同じ振る舞いをしている」という。 この二人の間に横たわるのは、 「意味とは何か?」 という古くて新しい問いだ。これは単なるAI論ではなく、人がいかにして世界を理解しているかという、認知・言語・文化の根源的問題でもある。 この問題を正面から受け止め、どのような方向からアプローチすべきかを示した論文集が、『記号創発システム論』(谷口忠大編著、2024)だ。領域は、認知科学、AI、ロボティクス、言語学、現象学、意味論に及ぶ。 記号創発システムとは 一つ一つが広すぎ・デカすぎ・深すぎるため、「記号創発システム」というキーワードを羅針盤とす
まじめにふまじめ、知的で痴的な一冊。 歴史、医学、宗教、経済学、生物学、文学、テクノロジーなど、あらゆる学問分野から「下半身の知」を掘り下げる。知的好奇心と性的好奇心を同列に扱う。 性欲旺盛な高校男女が手にして、知的探求のあまり学問に目覚めるかもしれぬと思うとニヤニヤが止まらぬ。学校図書館に常備しておきたい。 変な場所で性行為:牛車から宇宙空間まで、カーセックスの1000年史 例えば、カーセックスの歴史。 日本初のカーセックスは平安時代にまで遡る。『和泉式部日記』に「車宿りの一夜」というのがあるそうな。「車宿り」とは牛車の駐車場。 人静まりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契 「みんなが寝静まってから駐車場に来て、牛車に乗って色々な話をしてからまぐわった」になる。昔も今も、クルマの中はプライベート空間になる。透過率が低いスモークフィルムだと車検NGだけれど、牛車
東京大学のホームカミングデイの企画「AIと人文学」を聴講してきた。 フレームを超えるAI:黒澤明『天国と地獄』を俎上に、「垣間見」「漏れ聞こえ」といった人の所作から、フレーム問題を再定義する(阿部公彦 教授) 知の外在化と向き合う:井筒俊彦が描く学者像から「開かれた専門馬鹿」になるための「驚き(タウマイゼン)」の提案(古田徹也 准教授) 人外センシングAI:小説・映画・会話等を通じた間接体験を学習させた上で、超音波や赤外線など、人に無いセンシングを装備して感受性を育てる研究(佐藤淳 教授) 第24回ホームカミングデイ文学部企画「AIと人文学」より どれも興味深いものばかりで、2時間が一瞬だった。ツッコミというか質問欲がもりもり湧いてきたのは私だけではなく、質疑応答は15分では足りなかった。ゲーム実況みたいにコメントで質問受けながら実況形式にしたら、すごいコンテンツになるだろう(人はそれを講
「科学的に正しい」という言葉が揺らいだのは、2020年、世界がcovid19のパンデミックに直面したときだと思う。「科学的に正しい」数理モデルに基づき、感染者数の推移と予想のグラフと「最悪のシナリオ」が毎日のように報道された後の話だ。 人々はグラフを見つめ、「科学」が未来を予測してくれると信じていた。 ところが、現実はモデル通りには進まなかった。 感染者数が想定を上回ると「『想定外』を言い訳にする専門家は間違っている」と非難が沸き上がり、予想よりも被害が軽いと「オオカミ少年が経済を殺す」と叩く連中もいた。「科学的に正しい」とはデータに基づき客観的な立場から判断したものだから、現実世界を最も合理的に説明できる―――そんな期待を裏切られたと感じた人もいたかもしれぬ。 その一方で、各国政府がとった施策や人々が自主的に取った行動が(吉凶に関わらず)何かしらの影響を与え、モデル通りの未来にはならなか
「なぜ遅刻が多いの?」 「どうしてミスしたの?」 「できない理由は?」 職場や家庭で話をするとき、理由を聞きたくなる瞬間がある。問題解決のため、原因や課題を洗い出すための定番だ。 だが、『「なぜ」と聞かない質問術』は、この「なぜ」を使うなと説く。質問を「なぜ?」から始めると、事実の誤認や関係性がねじれ、議論が空中戦になり、コミュニケーションが上手くいかないからだという。 なぜ、「なぜ」を使ってはいけないのか? 「なぜ」は理由を聞いているようでいて、相手を問い詰め、言い訳を強要することになるからだという。例えばこう。 花子「なぜ遅刻が多いの?」 太郎「朝ギリギリで、電車に間に合わないことがあるので」 花子「じゃあ、余裕をもって起きてください」 太郎「はい……スミマセン」 質問者は純粋に知りたいだけかもしれないけれど、問われている方は責められているように感じている。ここから得られる解決策も、問
人は書物を読めない、ただ再読するだけ 表の最後を見てほしい。ドロレスは難産で死ぬ。享年17歳。 ん?作中でドロレスが死ぬシーンなんてあった? ハンバートがドロレスと再会する場面(2-27)で、いつか一緒に暮らす提案を拒絶されたとき、自動拳銃を取り出したり、「あなたが本書を読んでいる頃には彼女はもう死んでいて」なんて物騒な記述はあるにはあった。だが、拳銃が使用されるのはクィルティに向けてであり、ドロレスではない。一体いつ、ドロレスが死んだことになったのか? この謎、初読時には絶対に分からない。なので、最初のページに戻ってほしい。冒頭の「序」だ。ジョン・レイ博士なる人が、この小説の由来を述べている。正式なタイトルは『ロリータ、あるいは妻に先立たれた白人男性の告白録』であるとか、プライバシーのため登場人物は変名だとか、作者のハンバート・ハンバートは初公判の前に他界していることが書いてある。 「リ
ふわっとした議論 問題を裏返しただけの対策 それは症状であって原因じゃない 説得力が弱い 言い方は色々あるが、結局のところ、取り組むべき課題が不明瞭な状態だ。「部門統合でシナジーを得る」とか「顧客満足度が低いから顧客満足度を上げる」など、何も言っていないに等しい妄言を聞くのもウンザリだ。 では、どうすればいいか? この問いかけに対し、具体的に応えているのが『解像度を上げる』になる。 画像描写がキメ細かく、イメージが明瞭であることを解像度が高いというが、ビジネスの現場でも用いられている。物事への理解度や表現の精緻さ、事例の具体性や思考の明瞭さのメタファーとして「解像度」という言葉が用いられる。 解像度が高い場合、取り組んでいる領域について、明確で簡潔で分かりやすい答えが返ってくる。顧客が困っていることを深く知り、解決のためにどんな競合製品を使っており、そこでどんな不満を持っているかも把握して
ダンジョン化しつつある渋谷で行われたリアル読書会に行ってきた。課題本はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』だ。11名で3時間、あっという間だった。 『存在の耐えられない軽さ』は3回読んだ。邦訳が出た30年前に1回、世界文学全集で新訳が出た15年前に1回 [書評]、そして今回 [書評]なので、テーマもストーリーも承知しているので、もう味わうところは無いかな……と思っていたら大間違いだった。 この読書会で新たな発見があり、再々々読が楽しみとなった。対話を通じて意見の相違を確かめあい、さらに深く広く読む手がかりを得る―――読書会のおいしいところはここやね。 序盤で作品の感想を言いながら、「この会で皆と話したいテーマ」を述べる点が良かった。全員が一巡すると、『存在の耐えられない軽さ』で解きたい謎の一覧ができあがる。 なぜトマーシュとテレザは別れないのか? 複数人が疑問に思っていたのは、「なぜ
枠組みを変えることで問題を再定義することを「リフレーミング」と呼ぶ。リフレーミングの見事な例は、孫正義のこれ。 髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである。 RT @kingfisher0423: 髪の毛の後退度がハゲしい。 — 孫正義 (@masason) January 8, 2013 頭頂部で起きていることは1㍉だって変わっていないのに、ネガティブからポジティブへ再定義されている。こういう発想って、どうやって生まれてくるのだろう? おそらく、これを読んでいたのではないか? 本書は、見方を変えることで問題を別の角度から捉えなおし、問題を「再発見」する本だ。ユーモア小話仕立てのエピソードを俎上に、「問題は何か」「それは本当に問題なのか」「それは誰の問題なのか」「それを本当に解きたいのか」を分析していく。 「エレベーター問題」は誰の問題か 有名なやつだと、「エレベーター問題
経営幹部の必読書として有名な『失敗の本質』が面白かった&タメになった。 太平洋戦争における失敗の本質は、「国力で圧倒的に差がある米国にケンカを売ったこと」に尽きる。人を含めたリソース差が決定的であり、他の理由は後付けに過ぎない。「もし~だったら」と歴史にIFを求めても、いわゆる後知恵だ。 だが、この後知恵をあえてやったのが『失敗の本質』だ。 「なぜ開戦したのか」という問いはスルーすると序章で謳っている。代わりに「日本軍はどのように負けたのか」というテーマで日本軍の組織構造を研究する。インパール作戦やミッドウェー海戦など代表的な負け戦を6つ選び、いかに日本軍がダメで、米国や英国が優れていたかを力説する。 日本軍ダメダメ論 本書の前半は失敗の事例研究になる。各作戦(ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテなど)の背景や経緯は、膨大な戦史資料から引かれている。緊迫していく戦場の空気や、臨場
問いの感度を上げると、的を射たコミュニケーションができる。 太郎 『あのプロジェクトは失敗だ』 花子 『それはなぜ?』 一見シンプルなやり取りだが、この「なぜ」には二つの意味がある。 1.なぜプロジェクトは失敗したのか(原因を問う) 例:要件追加や人員不足が影響したのか 2.なぜ失敗だと判断したのか(根拠を問う) 例:納期遅延やコスト超過など、どの指標を根拠にしたのか 前者は「失敗」を事実として深掘りする問い。後者は「失敗」かどうかを確定させるための問いだ。 これを区別しないと、誤解を招く。例えば偉い人が「なぜ失敗したのか」と問うた場合、その背後には「どの指標を根拠に失敗と見なしたか」が隠れている。根拠を確認せずに原因を語れば、相手の意図とズレることになる。 偉い人がコスト超過を問題視しているのに「人員不足のせいです」と答えれば、「不足なのにコスト増?」と、しなくてもいい説明責任を背負わさ
誰だって失敗なんてしたくない。 自分のミスが原因で、手戻りが起きたり納期が遅れたりしたら、自分自身を責めたくなる。さらに「なぜ起きたのか?」「再発防止は?」などと責任追及されたら、いたたまれない。 失敗の不安と恐怖に圧し潰されそうになる。そんな現場のリーダーに向けた失敗とリカバリをエンジニアリングしたのが本書になる。 本書は面白いことに、「正しい失敗」と「間違った失敗」に分ける。そして、どうせするなら「正しく」失敗しなさいと説く。 「正しく」失敗?それは何だろうか。 速く失敗せよ 例えば、速く(早く)失敗する。 ITプロジェクトならDevOpsやアジャイルといった「小さく作り、駄目ならロールバックする」という技術革新の恩恵が受けられる。一般に適用するなら、まず少し手を付けて、見積もった想定とズレたら修正していく。出来の良さより「終わらせる」ことを優先し、周囲や上司のフィードバックを貰うとい
「人生は一回だけ」という。 だが、もし、その一回が繰り返し繰り返し、寸分狂いなく同じ内容・同じタイミングで未来永劫リピートするなら、「その人生」をするか?(選びたいか?) 天国(キリスト教)とか来世(仏教)とか、”やり直し”を期待して今を雑に生きるのではなく、「いま・ここ」を丸ごと肯定し、その選択を(不都合な結果も含めて)引き受けられるか? そういう覚悟で今日という日を、今という瞬間を生きろ。 そう考えると、人生は途方もなく重くなる。ニーチェの永劫回帰である。 ミラン・クンデラは、この人生の「重さ」と対照を成すものとして、『存在の耐えられない軽さ』を差し出す。 Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなもの
現代社会は「物語」だらけだ。 感動的なアニメや映画だけではない。テレビのCM、SNSの投稿、就職活動のエントリーシート、選挙候補者のPR動画など、私たちの心を揺さぶる多くのものは「物語」によって駆動している。 例えば、不登校だったけれど努力と工夫で難関大に合格した体験記や、学生時代に片思いだった人と再会して勇気をもらったエピソード、マナーを守らない傍若無人なイキリト君が逆に恥をかかされる話は、「感動した」「エモい」「スカッとした」といったコメントと共に拡散され、消費されていく。 あるいは、就職活動では「学生時代に力を入れたこと(ガクチカ)」が求められ、「私は〇N〇という困難を△△という工夫で乗り越え、□□を得ました」などと定型的な「エピソード」が評価される。 政策の具体性や実質的な数値のデータよりも、候補者の「過去の苦労」や「理想を抱いたきっかけ」がドラマティックに語られる。そして「苦しん
「私は寝てないんだよ」 2000年に起きた雪印乳業の集団食中毒事件における社長の発言だ。 発端は停電事故の汚染だが、商品の回収や告知が後手に回り、被害が拡大した。結果、スーパーからは雪印製品が消え、トップが辞任。最終的に雪印乳業は解体され、メグミルクで再生した。 対応を見誤り、記者会見で頭を下げる経営層を見るたびに、このセリフを思い出す(マスコミに上手く「切り取られてしまった」感もあるが)。 企業のトップだから、その立場では有能で仕事ができる方だろう。だが、愚かとしか言い様のない問題発言をすることがある。あるいは、マスコミから逃げ回ったり、「ノーコメント」を繰り返して火に油を注ぐことがある。 トップの不手際に限らない。システム障害、社員の犯罪、顧客情報の流出、クレームからの炎上など、企業組織を揺るがす危機は、突然襲ってくる。 そんなとき、どうすればいいのか? これを具体的に解説したものが本
あーお客さまーお客さまー 忘れものはーございませんかー? 『ございません!』 忘れもののー 保存期間はー 『3ヶ月!』 でもお客さまーのことはー 『一・生・忘れ・ナイッ!』 『パーリィーナイッ!!!』 銀河・銀河・銀河・ギンガ・ギンガ・ギンガ………銀河楼? ギンガ・ギンガ・ギンガ・銀河・銀河・銀河………銀河楼! よいしょ~~!! 銀河楼コールで始まった飲み会?じゃなくトークショー、めちゃくちゃ面白かった。 制作陣の裏話が最高過ぎる 『アポカリプスホテル』の制作スタッフのトークショーを見てきた。作るのに苦労したところや、こだわって凝ったところ、「ここだけは見て欲しい」というポイントや、「これだけは言えない」というヒミツまで、色々と仕込ませてもらった。もう一度見るとき、さらに濃厚に楽しめるだろう。 春藤佳奈(監督) 村越繁(シリーズ構成・脚本) 和田崇太郎(脚本) 竹中信広(制作統括) 上内健
「アートがわかる」とはどういうことかが分かる一冊。 著者はノーベル賞(医学・生理学)を受賞したエリック・R・カンデル。神経科学の教科書『カンデル神経科学』やブルーバックス『記憶のしくみ』の著者と言えば早いかも。 『なぜ脳はアートがわかるのか』は、お堅い教科書ではなく、現代アートを俎上に、認知科学、大脳生理学、医学から、美術史、美学、哲学まで、さまざまな知を総動員して、美的体験のメカニズムを解き明かしたもの。 ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルなど、アート作品が掲載されているのがいい。読み手は実際にそれを見ながら、還元主義的なアプローチで自分の美的体験を追検証できるような仕組みになっている。これから触れるアートにも適用できるので、いわゆる「応用が利く」やつ(この手法、『ブルーピリオド』の矢口八虎に紹介したい)。 フランシス・ベーコンの「顔」 この手法を、フランシス・ベーコンの作品を見
カットトマト1缶を煮詰め、隠し味に悪魔のトマトソース(ロピア)とKiriのクリーミーポーションを溶かしている。バジルの葉と鷹の爪とニンニクとウスターソースとコンソメと、とにかく美味しそうな要素を全部ぶちこんだ、私の、私による、私のための料理だ。 美味しいものを入れれば入れるほど、料理は美味しくなる。料理とは足し算であり、脂と塩と糖と旨味の合計だ。最強の料理とは、寿司とラーメンと焼肉を合体させたものだ。 少なくとも『料理は知識が9割』を読むまではそう思っていた。 ところが、料理とは足し算だけでは無いみたいだ。引き算もできるし、それがむしろ味の深みにつながるという。さらに、料理の方程式は掛け算であり、料理の最終形を念頭におきながら、逆算して美味しさを再構成していくことが重要だと説く。 著者はシェフクリエイト、料理教育のエキスパート集団だ。レシピを提供するだけでなく、料理の理論と実践を体系的に学
著者の日課は、科学論文を読み漁ること。「ネイチャー」や「サイエンス」など世界的な学術誌から最低でも1日に100本(多いと500本)、年間だと5万本の論文に接しているという(全読は無理にせよ、アブストラクトだけでもすごい!)。 そんな中から、特に面白いもの、今までの常識や定説を覆すもの、インパクトのあるものを選んだのが本書になる。著者が「これはすごい!」と感じたのが判断基準なので、さまざまな分野の論文が俎上に上る。 ある意味「ごった煮」となっているカオス感が楽しい。専門が薬学で、脳科学についても詳しいのでそっち系が多い。例えばこんな感じ。 鶏肉は洗うな(洗うと雑菌が飛び散るので不衛生) 生物と無生物を分ける新しい定義「寄生される」 クジラとフクロウの収斂進化に学ぶ失明治療のヒント 乳腺は汗腺が発達した器官という観点からのおっぱい成分分析レポート DNA配列をAIに学習させたら、「天然」よりも
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