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ブラックフライデー
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『環球時報』から高市発言についてコメントを求められた。私が「中国の対応はロジカルである。感情的に反発すべきではない」とネットに投稿した記事を読んでのオファーである。 『環球時報』は中国共産党の機関紙である。そこに「高市首相の発言撤回と謝罪と辞任を求める」日本人として寄稿することにはベネフィットとリスクの両方がある。 ベネフィットは中国の相当数の読者に日中の関係正常化と東アジアの平和を願う私の意見を直接伝えることができるということである。リスクは中国共産党の日本批判の「ウェポン」として利用されるかも知れないこと、そして日本国内のネトウヨたちから「中国のスパイ」として罵倒されることである(こちらは確実)。 どのような行動にもベネフィットとリスクがある。ことは理非・真偽・善悪の問題ではなく、程度の問題である。今回のオファーについては「リスクよりもベネフィットの方が多い」と判断したので、かなり長い
『コロナ後の世界』が文庫化される。改題して、収録されている中でいちばん重要と思われる『反知性主義者の肖像』をタイトルにした。文庫版には「まえがき」と「あとがき」と森本あんり先生との対談がボーナストラックでついている。これは「あとがき」。 最後までお読みくださって、ありがとうございました。 ゲラを通読してみて改めて感じたことは、ジャンルもトピックもぜんぜん違う文章を貫いているけれども、すべてに共通する特性があるということでした。それは居着かないということだと思います。少しだけ紙数を頂いたので、最後にちょっとだけその話をさせてください。 「居着き」というのは武道の用語です。具体的には足裏が地面に貼りついて身動きができなくなることですが、広くは「定型的な言葉づかいしかできなくなること」、「常同的なふるまいを反復すること」、「心が硬くなること」を指します。武道では端的に「居着いたら死ぬ」と教えられ
『クライテリオン』のために、藤井聡、柴山桂太の両先生と「脱移民」を主題に鼎談しました。その中の、僕の冒頭部分の発言だけ収録します。続きは本誌でどうぞ。 僕が「日本は移民に耐えられないだろう」と書いたのは、今の日本は未熟で幼児的な社会なので、他者との共生は不可能だろうと思ったからです。こうした市民的に未熟な社会に移民が入ってくると、すぐに世論は外国人排斥に傾いて、極右政権ができる。僕はそれに対して危機感を感じて、野放図に移民を入れることに反対したんです。 今すでに三百八十万人の外国人が日本で暮らしています。これからもっと増える。人口の一〇%に達するのも時間の問題です。しかし、彼らをどうやって受け入れて、共生するのかについての議論は進んでいない。外国人が増えると社会不安が増大するのは、受け入れ側の日本人の市民的な成熟が足りないからであるというシビアな現実認識が欠如している。 外国人をめぐる議論
石破茂首相が選挙の敗北の責任をとって総裁を辞職する意思を表明した。党内外で「石破おろし」の風が吹き荒れ、党内基盤の脆い首相は、世論の支持がありながら持ちこたえることができなかった。この後の政局がどうなるのか、先行きが見えない。でも、誰が次期総裁になっても、自民党退勢の流れは変わるまい。「解党的危機」はこの後も続く。そして、内閣が失政を犯すたびに党内で「・・・おろし」が始まり、短命な内閣が続くことになる。そして、政権の安定性に対する信頼が失われると、いつの世でも「単純主義者」が前面に出てくる。 「単純主義(simplism)」という政治用語を日本のメディアは使わないが、これは「右/左」「保守/進歩」という区分よりも政治の実相を表す上では適していると私は思う。政治を「善悪・良否」のデジタルな二項対立に還元して理解し、解決策は「敵を叩き潰すこと」だと息巻くのが単純主義である。 しかし、実際の政治
自民党の後継総裁選びでメディアは賑わっているが、私はそれより世界大戦の切迫の方が気になる。 先日、トランプ大統領が国防省(Department of Defense)を「戦争省(Department of War)」に改称するという大統領令を発令した。ヘグセス新戦争長官は「我々は守るだけでなく、攻めに出る。手ぬるい合法性ではなく、最大の殺傷力をもって。政治的な正しさではなく、暴力的な効果を目指す」と強調した。世界的な混乱のさなかに「暴力の効果」に信を置くとアメリカの国防政策のトップが宣言することの意味をこの男はどれくらい理解しているのだろうか。たぶんあまり理解していないと思う。事実、その発令の直後にロシアはドローンでポーランドを攻撃し、イスラエルはカタールでハマス幹部を爆殺した。 「世界はグッドガイとバッドガイが戦っている」という単純な二元論を信じて、知的負荷を軽減したいと願うのはトランプ
朴東燮先生が先日韓国のメディアからインタビューを受けた。その時に「韓国の学界では内田樹思想に関する論文はどのくらい出ているのでしょうか?」と訊かれて、朴先生は「ゼロです。いや、正確に言えば、かつて私は必死に論文を投稿したのですが......一本たりとも掲載されませんでした!」と答えたそうである。そうだろうと思う。別にいいけど。 そのインタビューに触発されて朴先生は韓国の「正統的な」学術に対する疑問について次のような文章を草されたそうである。韓国の大学の事情が知れる貴重な情報なので、ここに採録。 奇妙な人気作家、内田樹 研究者は誰に向かって話しているのか、と問われますと、私はまず耳のかたちを思い浮かべます。耳は目よりも謙虚です。遠くを見渡すことはできませんが、遠くから届いたものを、静かに受け取ることができます。韓国の大学で今日、論文という名の小さな船を出すとき、港で私たちを待っているのはしば
『通販生活』の「トランプ特集」にこんな文章を寄稿した。書いたことを忘れていたら、原稿料の振り込み通知があったので思い出した。一昨日の「人権スコラ」でも似たような話をした。どうして日本の政治学者やジャーナリストは「日米安保廃棄の後に来る先軍政治」について想像力を行使しないのか、よくわからない。 「アメリカ抜きの日本の安全保障について」 というタイトルを書いたけれども、たぶんこのトピックについて真剣に考えている政治家も官僚も政治学者もいないと私は思う。いや、少しは考えたかも知れないけれど「真剣に」は考えていない。 「アメリカ抜き」のというのは日米安保条約が廃棄された「後の」安全保障のことである。戦後80年間日本政府は「日米同盟基軸」だけにすがりついて、それ以外に安全保障政策について計量的に考えたことがなかった。これは「なかった」と断言してよいと思う。 以前、ある高名な政治学者と対談した時に「日
TRANSITという媒体で戦後80年を振り返るという総括的なインタビューを受けた。その中の「憲法について」の部分だけ摘出した。 ──戦後日本は経済成長とともに社会が大きく変化してきました。そうした変化のなかで、戦争への向き合い方や憲法に対する議論は、どのように移り変わってきたとお考えでしょうか。 僕が子どもの頃、親や学校の先生たちはほとんどが戦中派でした。多くが天皇制や国家神道に対しては批判的でした。天皇制は廃止すべきだと広言する大人たちも少なくありませんでした。でも、日本国憲法を悪く言う大人には僕は会ったことがありません。憲法は敗戦国民日本人が唯一誇りを持つことのできるものだったからだと思います。 かつて世界5大国の一角を占め、国際連盟の常任理事国であり、「アジアの盟主」を任じていた帝国が、する必要のない愚かな戦争を始めて、戦争に敗れて帝国は瓦解し、国家主権を失い、アメリカの属国に零落し
朴東燮先生が『日本辺境論』を書架から取り出して読みだしたらとまらなくなって、読み終えてすぐにエッセイを1篇書いてくれた。日本のことにも言及してくれているので、こちらに再録する。 宇宙ステーションの匂い 人間が活動できる空間の中で、おそらく最も「清潔」な場所は、国際宇宙ステーション(ISS)でしょう。地球から送り込まれるすべての物資は、最新技術を駆使して徹底的に除菌され、宇宙飛行士たちは厳格な衛生管理の下で生活しています。そこは、あらゆる汚染から隔離された、純粋性の砦のようです。しかし、実際にISSに滞在した宇宙飛行士たちの証言によると、そこは決して無臭のクリーンルームなどではないと言います。むしろ、「プラスチックの匂い、生ゴミの匂い、そして人々の体臭が混じり合った、決して快適とは言えない匂い」が充満しているというのです。 なぜでしょうか。外部からの微生物の侵入を極限まで遮断した結果、その閉
『コモンの再生』の韓国語訳が出て、訳者の朴東燮先生が「あとがき」を書いてくれた。朴先生、いつもありがとうございます。 内田樹師匠の重要な著作『コモンの再生』の韓国語訳を終え、今、深い感慨とともに訳者あとがきとしてキーボードに向かっている。翻訳という作業は、単に言葉を置き換えることではない。それは、著者の思考の息遣いに耳を澄ませ、その思想が生まれた土壌の匂いを嗅ぎ、その言葉が未来の誰に宛てて書かれたものなのかを、自身の身体を通して感じ取る旅である。この旅を通じて、私は本書が持つ現代社会への射程の長さと、その根底に流れる切実な願いを、改めて痛感することになった。 本書の核心的な主題は、そのタイトルが示す通り「コモン(=公共的なるもの)」のあり方を問い直し、それが失われつつある現代において、いかにしてそれを「再生」するのか、という点にある。読み進める中で、私の脳裏を離れなかったのは、「では、その
―― 現在の政治的混乱はどう見ていますか。 内田 世界中で権威主義が強まり、まともな民主主義体制を維持できている国は減少する一方です。民主主義指数8.0以上の「完全民主主義国家」は世界の15%にまで縮減しました。欠陥民主主義国家(民主主義指数7・0以上)まで含めると世界の42.5%です。残りは強権的な独裁制に近い。 中国やロシアやトルコは権威主義的な体制として大国化していますし、西欧でも排外主義的な極右政党が台頭している。米国のトランプ大統領は立法府・司法府を力で押さえつけて「国王」のような権力をふるっています。英国ではリフォームUK、フランスでは国民連合(旧国民戦線)、ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)が勢力を拡大し、イタリアではファシスト党の流れを汲むFDI(イタリアの同胞)のメローニ党首が初の女性首相になりました。 日本の参院選での参政党の急伸も同じ文脈での出来事と見なしてよい
敗戦から80年経った。戦争の生々しい記憶が年ごとに摩滅し、より観念的なものに置き換えられている。「観念的」と言うよりむしろ「妄想的」と言うべきかも知れない。 私は1950年生まれなので、子どもの頃は大人たちが時折戦時中について語るのを聴くことがあった。それはまだ「物語」として編成される以前の、もっと生々しく、筋目の通らない話だったように思う。 その中でも子ども心に一番深く残ったのは父親がわが家に招いた同僚たちと酌み交わしながらふと洩らした「敗けてよかったじゃないか」という一言だった。その言葉が私の記憶に残ったのは、その場にいた男たちが盃を含みながらしんと黙り込んだからだ。子どもには「敗けてよかった」という理路がわからなかった。 私の家は貧しかった。子どもが欲しがるものを母親が買い与えてくれなかった。「どうして買ってくれないの」と私がごねると母は「うちは貧乏だから」と答えた。「どうしてうちは
敗戦後80年が経った。敗戦の記憶が遠ざかるにつれて、敗戦が日本人にもたらした生々しい知見が失われつつある。それは何だろうか。歴史資料を渉猟するには及ばない。私が思い出すのは小津安二郎の映画の中の二つの台詞である。 一つは『彼岸花』で佐分利信がつぶやく言葉。芦ノ湖のほとりで、妻(田中絹代)が戦時中防空壕で一家四人必死に抱き合っていた時を思い出して、往時を懐かしむのを遮って、夫(佐分利信)が吐き捨てるように言った言葉である。「俺はあの時分が一番厭だった。物はないし、つまらん奴が威張っているしねえ。」 もう一つは『秋刀魚の味』。かつての駆逐艦艦長(笠智衆)が戦争を回顧して「負けてよかったじゃないか」と微笑する。それを聴いて一瞬怪訝な顔をしたかつての水兵(加東大介)が「そうですか。そうかも知れねえな。馬鹿な野郎が威張らなくなっただけでもね。いや、艦長、あんたのことじゃありませんよ」と応じる。 たぶ
先の参議院選挙結果についていくつかの媒体から取材された。それほど人と違うことを言えるわけではない。ただ、排外主義的で好戦的な公約を掲げた政党が急伸したことについては、それが全世界的な傾向であって、日本固有の出来事ではないということを申し上げた。 「よその国も日本と同じように政治が劣化している」と言われて「うれしい」という人はいないだろうが、それでも、この選挙結果が世界史的な地殻変動の一つの露頭であるという解釈は検証する甲斐があると思う。 政治にはいくつかの「層」がある。政治部記者が報道するのは、その表層である。たしかに事実を伝えてはいるのだが、それが「何を意味するのか」については説明してくれない。「何を意味するのか」について書くためには極端な話「遠い遠い昔に、遠い遠い国で」というところから話を始めなければならない。そんな字数は紙面が許してくれない。 今起きている出来事は表層での事実報道だけ
KOTOBAという雑誌に武道的思考について寄稿した。それを再録。 修行は競争ではない 武道の修行というのは「天下無敵」という、どれほど努力しても絶対に到達できない無限消失点のような目標めざし、先達に従って、ただ淡々と稽古を重ねるという生き方のことです。 「天下無敵」という無限に遠い目標をめざす旅程においては、修行者は誰も「五十歩百歩」です。無限の旅程の中で、自分が他の修行者より何キロ先まで行ったとか、単位時間内にどれだけ走破したとか、そんな相対的な優劣を競うことには何の意味もありません。ですから、武道の稽古では修行者同士の間での、勝敗や強弱や遅速や巧拙を競うということをしません。 オリンピック種目にあるような競技武道では勝敗を競います。ですから、あれは「スポーツ」であって、日本の伝統的な「武道」とは違うものです。もちろん「スポーツ」は人間の心身の可能性を高めるすばらしいメソッドですけれども
ある媒体に長いものを寄稿した。かなり特殊な媒体なので目に届かないだろうから、ここに転載する。 「現代教育や技術者および人材育成の問題点・改善点」についての寄稿を求められた。 長く教壇に立ち、自分の道場で門人を育成してきた立場から「教育」については経験的に言えることがある。大学と道場では「管理者」という立場にあったので、「組織論」についてもいささかの私見はある。ただ、教育論も組織論も私が語ってきたのは「かなり変な話」である。私としては経験に裏づけられた知見のつもりでいるけれども、残念ながらどちらについても今の日本社会には同意してくれる人が少ない。だから、以下の文章を読まれる方は、それが少数意見であって、日本社会の常識には登録されていないものであるということをあらかじめご了承願いたい。 学校教育についてまず申し上げたいのは、学校というのは「子どもたちの市民的成熟を支援するための制度」であって、
高校生にオンラインで憲法についての授業をすることになった。せっかくの機会だから、できるだけ高校生がこれまで聴いたことのない話をしようと思った。 論点は一つだけ。日本国憲法の特殊性についてである。 日本国憲法の最大の問題点は、憲法の制定過程でどのような議論があった末にこのような条文が採択されたのかについての国民的合意が存在しないことである。改憲派はGHQの法務官僚がわずかな日数のうちに書き上げて日本に「押し付けた」憲法であるという解釈をする。護憲派は憲法前文の「日本国民は・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を制定する」という文言を根拠に、憲法を起案し制定したのは「日本国民」だという立場を採る。これでは国民的合意の成り立ちようがない。 アメリカ合衆国憲法の制定には独立宣言から11年の歳月を要したが、それは合衆国がどのような国であるべきかについて「建国の父」たちの間で容易に合意が
「親切な家父長制」ということについてこのところ「伝道」をしている。 「家父長制」は今は唾棄すべき「諸悪の根源」として扱われているけれども、家族制度というのは良否善悪の判定に従うものではない。 エマニュエル・トッドによれば、家族関係が「政治的な関係におけるモデルとして機能し、個人が権威に対してもつ関係を定義している」(『世界の多様性』)。 世界のあらゆる家族制度は「自由/権威」と「平等/不平等」という二つの二項対立を組み合わせた四つのモデルのどれかに当てはまる。 日本は直系家族という家族制度であり、これは個人の決断や「政治的に正しいかどうか」では変更することができない。直系家族では、長兄が家督を継ぎ、家にとどまる他の成員については権威者として臨むが、同時に扶養義務を負う。 日本でも最近まではそうだった。でも、少子化と核家族化で、この家族制度は解体した。にもかかわらず家族制度を「政治的な関係の
若い研究者とテクノロジーの未来について対談する機会があった。 お相手してくださったのは法政大学准教授の李舜志さん。少数のプラットフォーマーが市場と思考を支配するディストピア「テクノ封建制」からどうやって離脱して、民主制とコモンを再生させることができるか、そのテクニカルな方法について貴重な知見を伺うことができた。若い人と話すのと老狐の脳にも「キック」が入ってまことに刺激的である。 途中から「どうやってコミューンを立ち上げるか」という実践的な話題になった。これなら私にも組織人として長く生きてきた経験知の蓄積があるので思うところを述べた。 組織を作れば必ず「人より多く働く人」と「人より少なく働く人」が生まれる。これは避けられない。でもこの時に「フリーライダー捜し」をしてはいけない。「集団への貢献以上の分配に与っているのは誰だ?」という問いを立ててはいけない。というのは、フリーライダーを捜し出して
―ー 内田さんは新著『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』(弊社刊)で、戦前のアジア主義・農本主義の代表的思想家である権藤成卿の思想を再評価しています。 内田 権藤成卿は「聖王と良民」が中間的権力装置を排除して直接結びつく「君民共治」「社稷自治」を理想とする政治思想を唱えました。政治思想としての完成度は決して高くありませんが、これが日本人が外来の思想に頼ることなく自力で生み出したオリジナルな政治思想であることは間違いありません。 どのような国民集団も自分たちの存在理由、存在根拠についての固有の「物語」を持っています。現実の政策がその物語に合致していれば、それは強い現実変成力を持ち、物語に合わない政策は、表面的には合理的なものに見えても、現実を変えるだけの力を持たない。 現在、日本はシリアスな、国難的危機に直面しています。これに対処するためには、区々たる政治的立場の違いや階
英国政府はこれから過激なミソジニー(女性嫌悪)をイスラム原理主義や極右運動と同じ「過激主義」の一形態とみなすと発表した。その記事の中に「インセル犯罪」という文字列があった。「インセル」というのはInvoluntary Celibate 。「不本意独身者」。心ならずもパートナーを得られない人のことである。 過激なミソジニーの担い手はこのインセル男性である。米国では女性を無差別に攻撃し、殺害する事件が繰り返し起きている。彼らはフェミニズムが自分たちから進学や就業の機会を奪ったという「物語」によっておのれの不運を説明し、罰を与えるために女性を殺し、自分も死ぬ。救いがない。 こういう話を聞くと、「男は弱い」とつくづく思う。私には娘が一人いる。未婚である。どうして結婚しないのかと前に訊いたら「男のエゴを撫でて過ごすほど私の人生は長くないから」という答えだった。「なるほど」と言う他なかった。 たぶん男
ヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』(集英社)の書評を頼まれた。書評と言ってもオンラインで行われた編集者、ライターとの対談を文字起こしするだけである。でも、とても興味深い本だったので、1時間ほど話した。 バルファキスは2015年のギリシャ経済危機の時に財務大臣に招かれて経済の立て直しに尽力した経済学者である。現場を熟知している人ならではの分析には説得力があった。 バルファキスによれば、ネット上のプラットフォームを独占的に所有している企業(アップル、グーグル、アマゾンなどなど)が今や「資本主義から抜け出してまったく新しい支配階級」を形成している。彼らはもう質が高く安価な製品を市場に提供して、競合他社を制してシェアを増やすという在来のビジネスモデルを採用しない。そうではなくて、誰も競争相手のいない「ブルーオーシャン」に乗り出して、一気に市場を独占するのである。そして、その「封土」にやってくる
政治学者の白井聡さんと久しぶりに対談した。彼も私も「大風呂敷を拡げる」のが好きでたまらないタイプなので、幕末の遊説家もかくやとばかり治国平天下を論じることになった。談論風発、まことに痛快だった。 白井さんのような言論人は少ない。政治学者たちはすでに起きたことを解説する時には雄弁だが、未来予測については抑制的である。まして集団的な幻想や物語の現実変成力についてはほとんど言及しない。だが、人間の脳内ではしばしば幻想が現実より現実的である。私は骨の髄まで実用本位の人間なので、つねに「現実的なもの」に焦点を合わせる。幻想が現実的なら幻想をじっくり吟味する。 今の米大統領がめざしているのは米国の「国益」を最大化することではなく、(彼がそれを「国威」だと信じている)「他国に屈辱感を与える権利」の最大化であると私は考えている。 米国人が今国民的規模で罹患している政治的幻想があるなら、それはミサイルや艦船
トランプの世界戦略は何かをよく訊かれる。果たして「戦略」と呼べるようなスケールの構想が彼の脳裏に存在するのかどうか、私には分からない。ただ、トランプがMake America Great Again と呼号していたときの「再帰する先」がどこかは見当がついた。ウィリアム・マッキンリーとセオドア・ルーズベルトが大統領をしていた時代、すなわち1897年から1909年までの米国である。 マッキンリーは米西戦争でスペインの植民地だったプエルトリコ、グアム、フィリピンを併合し、キューバを保護国化し、ハワイ共和国を併合した。米国が露骨な帝国主義的な領土拡大をした時期の大統領である。そして、保護貿易主義を掲げ、外国製品に対して57%という史上最高の関税率をかけたことで歴史に名を遺した。ルーズベルトは「穏やかに話し、大きな棒を担ぐ」「棍棒外交」で知られているが、日露戦争を調停したこと(この功績でルーズベルト
トランプ大統領の連邦政府攻撃と関税外交で米国は深い混乱のうちにある。どうして大統領自身が行政府の弱体化を目指すのか、意味がわからないという人が多い。わからないと思う。ふつう独裁をめざす政治家は行政府の権限を強大化するものだからである。でも、トランプは逆に連邦政府機関の弱体化を進めている。なぜか。トランプを建国時点での反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の何度目かのアヴァターだと見立てると、少し理解が進むと思う。 13州が同盟して英国からの独立戦争を戦った時、暫定的な「同盟」はあったが、連邦政府はまだなかった。独立宣言から合衆国憲法制定まで11年かかったのは、連邦政府にどれくらい権限を付与するかについて国民の間で合意が成り立たなかったからである。 「州(ステイト)」にはそれぞれ政府があり、議会があり、憲法があった。連邦政府はそれらの「ステイト」のゆるやかな連合体なのか、それとも「ステイト」の上
『月刊日本』から、権藤成卿の『君民共治論』が復刻されることになったので、その「解説」を書いて欲しいという不思議なオファーを受けた。「不思議」だと思った理由は二つあって、「どうして今ごろになって権藤成卿を復刻するのか?」ということと、「どうして私にそんな仕事を頼むのか?」ということであった。 後の方の理由は何となくわかった。おそらく担当編集者の杉原悠人君が何度か私の書斎を訪れているうちに、書架に権藤成卿や頭山満や内田良平や北一輝や大川周明の本や研究書が並んでいるのを見て、日本の右翼思想に興味がある人だと思ったのだろう。この推理は正しい。 私はこれまで日本の右翼思想についてまとまったものを書いたことがない。だから、ふつうの人は私の興味がそこにあることを知らない。でも、書斎を訪れた人は本の背表紙を見て、私の興味の布置を窺い知ることができる。明治の思想家たちについての書物は私の書架の一番近く、手が
斎藤元彦兵庫県知事のパワハラ疑惑などを告発した文書問題で県が設置した第三者委が報告書を公表した。百条委の報告書よりも踏み込んだ内容だった。知事の言動16件のうち、職員への激しい叱責など10件をパワハラと認定し、また記者会見で元県西播磨県民局長を「嘘八百」「公務員失格」と非難し懲戒に処したことも公益通報者保護法違反とした。 この第三者委員会は知事自身の指示で昨年9月に設置されたものである。記者会見でさまざまな疑惑を指摘されるたびに知事はことの真偽当否の判断はすべて「第三者委員会が結論を出す」という回答を繰り返して、自身の説明責任を回避してきた。しかし、百条委の報告書は「一つの見解だ」として「重く受け止める」と言いながらその直後に元県民局長を貶める発言を続けて報告書の本旨を否定した。 第三者委員会の報告書は知事の公人としての資質に重大な瑕疵があることを厳しく指摘したものである。パワハラの多くが
『建設労働のひろば』という変わった媒体から寄稿を頼まれた。12000字という字数要請だったので、あちこちに脇道に入り込んで無駄話をすることになった。たまにはそういうのも許して欲しい。 寄稿依頼の趣旨は「劣化する民主主義、広がる格差、極まる『自分ファースト」、戦争が終わらない世界情勢など、国民が直面する危機的な日本の現状とその要因について、また(ほんの少しでも)希望について語っていただけないでしょうか」というものだった。 同じようなことをよく訊かれる。だから、答えもだいたいいつも同じである。だから、以下の文章を読まれた方が「これ、前にどこかで読んだことがあるぞ」と思っても当然である。でも、それを「二重投稿だ」と咎められても困る。「現実をどう見ますか」という問いにそのつど新しい答えを出せるはずがない。いつもの話である。 長く生きてきてわかったことの一つは、歴史は一本道を進むわけではなく、ダッチ
オウム真理教の地下鉄サリン事件から30年経つ。ある放送局がそのための特番を制作したいというので、私のところにインタビューに来た。 私は事件当時、阪神の震災で被災して、住む家を失って体育館で暮らし、被害の大きかった大学での土木作業に日々を過ごしていたせいで新聞もテレビもろくに見ていなかった。だから、サリン事件の報道も「次々とひどいことが起きる。末世なのか」というような漠然とした受け止め方しかできなかった。ただ、オウム真理教は日本人の宗教的な未成熟が生み出したものであり、日本社会そのものを培地として育った「鬼胎」であることについては確信があった。 事件が起きる前までテレビや出版メディアは麻原彰晃を繰り返し取り上げていた。内心では「胡散臭い」と感じながら、素材としては「面白い」から、それを利用しているつもりの人がたくさんいたのだろう。それに、吉本隆明のような見識のある人が麻原を稀有の宗教家だとし
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