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ブラックフライデー
note.com/hokusyu
最近、SNSで「令和人文主義」なるフレーズを目にすることが増えた。 聞き慣れない言葉であり、気になって検索したところ、まずたどり着いたのがこの記事だった。 この記事では、令和人文主義を、古い世代の教養主義や倫理主義と断絶した、若者たちによる、主に会社員をターゲットとした、知識を使った軽いエンターテイメントコンテンツと考えている。この世代は、学問的探究心や社会正義といったものに関心はなく、ただ娯楽としての知に価値を置いており、楽しければよいというのである。 この記事を読んで大変驚いた。というのも、私は記事中で令和人文主義の例として挙げられている「コテンラジオ」「ゆる◯◯ラジオ」はそれなりに聴いたことがあるし、「QuizKnock」のコンテンツそれなりに視聴したことがあるが、こうしたコンテンツは、上述した「令和人文主義」の定義に当てはまらないからだ(なお、よく名前が挙げられている三宅香帆氏の本
混迷する日本政局の中で、自民党との連立を模索する維新の党が、連立政権の必要条件として出してきた議員定数削減(比例議席50減)が話題になっています。これは自民党が絶対にのめない企業団体献金の禁止の代替として持ち出されたものだと言われています。さらに議員定数削減は、大した経費の節約にはならず、人民の代表を減らすことで行政のチェック機能を弱めてしまう欠陥政策であるという考えが浸透してきたこともあって、中小政党の支持者や、高市自民党総裁を支持してきたような保守派からも反対の声があがっています。たとえ議員定数削減を自民党がのんだとしても、その実現は簡単にはいかないでしょう。 ところで議員定数削減に反対であっても、現行の比例代表制度には問題があると考えている人も多いようです。特に比例復活制度については、その制度による当選者を「ゾンビ議員」などと呼んで悪様に罵る人も少なくありません。 右であれ左であれ、
Netflixのドラマ『アドレセンス』が凄いというので観てみた。 ある純朴そうな少年が行ってしまった凄惨な殺人。その背景には何があるのか。ワンカットで進行する緊張感溢れるドラマは視聴者に目を背けることを許さず、どんなに重苦しい雰囲気でも逃げることはできない。 この物語は実際に起こった物語ではなく、いわば一つの寓話である。ワンカットの撮影方式は、ある意味でのリアリティを欠いている。刑事が聞き取り調査のために授業中の各教室を回り、火事騒動などもありつつ逃げた共犯者を追い、逮捕する。学校に戻ると生徒たちが下校しており息子と帰宅する。これがわずか1時間のうちに起こるのだ。リアルの時間軸はもっとゆっくりしているはずである。逆にいえば、各エピソードに無駄なく詰め込まれた様々な出来事や台詞や演出によって、視聴者は思考の流れや事件の構造を寓話的に追体験するのである。 とはいっても、現代的な少年事件や家族や
江頭2:50が炎上している。TBSの番組『オールスター感謝祭』で永野芽郁を泣かせるほど追い詰めた「暴走芸」に対して、「セクハラを笑いにしてよい時代ではない」「芸風が古い」などと、各方面から批判されている。 一方、江頭を擁護する人もいる。「彼の暴走芸が許されないなんて、つまらない時代になった」というわけだ。酷いことに、バラエティの「ノリ」を理解しない永野芽郁を批判する人までいる。当の江頭は、自身のYouTubeチャンネルで謝罪動画を出し、素早く鎮静化を図った。 この騒動を眺めていて私が思うのは、それを当然のことと思うにせよ、嘆くにせよ、彼の芸は「昔は許されていたが今の時代に通用しなくなっている」と理解するのは間違っているのではないか、ということだ。 江頭2:50の暴走芸は、昔から許されていたわけではない。そもそも彼の暴走芸は、最後は江頭自身が他の出演者たちにボコボコにされることによって成り立
2025年も明け、世間は新しい大河ドラマ『べらぼう』の初回で演出された遊郭描写についての論争で持ちきりである。時期を逸したかもしれないが、あえて昨年の大河ドラマ『光る君へ』の話をしたい。 話題にしたいのは、藤原道長についてだ。彼の人間像は、まひろを一筋に想い続けていたという点で一貫している。一方、政治家としての藤原道長は、このドラマの中で一貫していなかったと思うし、巷でもそのような評価が多いようだ。 藤原道長といえば、その息子頼通と並び、摂関政治の絶頂期を築いた歴史上の人物として有名である。しかし彼が有為な人物とされるのは朝廷における権力闘争の勝者という意味においてであり、優れた為政者という意味ではない。多くの歴史家は、他の平安貴族たちと同様、道長も民衆の暮らしには無関心であったと考えている。 それにもかかわらず、当初の『光る君へ』では、藤原道長を、直秀の死を一つのきっかけとして、身分の違
(ネタバレあり) メディアミックス作品で「原作改変」をすることは、特に『セクシー田中さん』の痛ましい事件の後、極めてセンシティブな問題になっている。私はあの事件において実際に何があったのかを知りうる立場ではないが、テレビ局側がコミュニケーションの不足により作者を追い詰めたのは確かであり、責任は免れられないだろう。 一方で、「原作に忠実」であることはそんなに偉いのか、とはずっと考えている。特にアニメでは、過去作品のリメイク物を中心に、原作漫画の台詞の一字一句を変えずに映像化する作品が増えているが、それなら漫画読めばいいじゃんと思ってしまう。原作を別のメディアで新たに作品化することは、そういうことではないでしょうと。 韓国の映画監督パク・チャヌクは、原作改変の名手だと思っている。『オールド・ボーイ』は原作漫画の設定以外はほぼ全てが改変され、オチまで原作と異なっているが、何も知らされないまま試写
私が初めてフワちゃんを知ったのは、今から7年ほど前、インターネット番組『Aマッソのゲラニチョビ』だった。これまでの女性芸人にもいなかったような、素人っぽさもありながら勘所を押さえているタイプの芸風に驚き、これは「発見されれば売れる」と思った。まさかYouTuber枠でデビューし、Aマッソより先に売れるとは思っていなかったが。 フワちゃんは嫉妬したのか今回の事件についての話題で、フワちゃんの芸風がやす子と比べられることがある。フワちゃんがブレイク時と比べてテレビ露出を減らしつつあった後にやす子の出演が増えたことから、フワちゃんはやす子に嫉妬していたので件の投稿をしたのではないか、という疑惑がもたれている。 本当にそうなのだろうか。確かに「馬鹿よ貴方は」新道竜巳が述べているように、フワちゃんの芸風とやす子の芸風は平場の瞬発力を強みとしているところは似ている。 だが、芸の質は異なる。やす子の芸は
7月7日に行われた東京都知事選挙は、「イメージ」の選挙だったと言ってよい。 現職の小池百合子が都政をつつがなく運営できているという「イメージ」。 石丸伸二の改革者としての「イメージ」。 蓮舫の「左翼」または「怖い」という「イメージ」。 なぜ現職が圧勝したのか、なぜ石丸氏が得票率で2位になり、蓮舫氏が3位になったのか。メディアの分析や有権者に対する取材では、数々の「イメージ」が並んでいる。 特に現職の対抗馬となる石丸氏や蓮舫氏に対しては、ほぼ「イメージ」だけで選ばれた「印象」がある。 石丸氏に対しては、政治を変えてくれ「そう」、有能「そう」、政党色がない(ファクトに反する)などの「イメージ」が並ぶ。蓮舫氏に対しては、怖「そう」、いつも攻撃的な「印象」、笑顔が怖い(印象論)、共産党「色が強い」、などの「イメージ」が並んでいる。 私は、メディアがどんな顔をしてこの報道ができているのか分からない。
5月19日の日曜日、「日の丸街宣倶楽部」というレイシスト団体が、埼玉県蕨市でヘイトデモを行うということで、カウンターに行ってきた。 蕨や川口など埼玉県南部でクルド人を中心とした外国人差別が激しくなっていることについては、以前『ニューズウィーク 日本版』のコラムに書いた。 https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2024/02/post-65.php 日本における差別に対するカウンター行動といえば、いわゆる「しばき隊」から派生した「C.R.A.C」系の運動が有名だ。しかし私は、その「C.R.A.C」史観からみれば、「あまりうまくいかなかった」とされる「左翼系」のカウンター行動に参加していた。 差別デモのカウンターに行くのは、ほぼ10年ぶりだろうか。昔のことを思い出しながら向かう。 レイシスト5人・カウンター100人・無数の警察官現場につくがレイシストが見つ
最近の野党は、文字通り右も左も消費税減税を主張しています。これは考えてみれば不思議なことです。なぜなら、世論調査の結果から分かるのは、世論は消費税は上がるときは反対運動が広がるが、いざ上がってみると減税運動にはそこまで積極的にならない、というものだからです。2021年の衆議院選挙でも、消費税については特に大きな争点になっていたとは言い難いでしょう。もちろん消費税には逆進性があり、庶民の家計を圧迫する要因のひとつです。しかしながら、ほぼ全ての野党が減税にベットするような税制かと言われれば疑問です。 もちろん消費税が安くなることにこしたことはない。しかし全体で20兆円以上の税収となっている消費税を減税するならば、その穴埋めをどこかでしなければなりません。維新や国民民主党が狙っているのは福祉カットです。「世代間格差」というトンデモ理論を根拠に、高齢者福祉を削り、「生きるに値しない生」をつくりだそ
先日、オリエンタルラジオの中田敦彦が、お笑い界における松本人志の影響力を問題視する動画を出した。これに対して動画内で名前を出された粗品の相方のせいやが反応するなど、多くの芸人や著名人が言及する事態となっている。 中田の主張は、現在のお笑いジャンルのほとんどが松本人志によって牛耳られており、その枠内でしか芸人は評価されないため、お笑い界のイノベーションが起こらなくなっている、というものである。松本は漫才、コント、大喜利、トークといった様々な大会を「主催」している。面白いとは松本人志が評価するということであり、逆に彼がつまらないといったものは世の中的にもつまらないというレッテルを貼られてしまう、というのだ。 日本のお笑い界が現状のままでいいのか、という点については、とりあえず議論しない。私自身の考えでは、大阪維新(あるいは自民党政権)と吉本興業の政治的結びつきなども含めて、現状のままではよくな
2022年、ウエストランドが第十八回M-1グランプリ王者になった。このことは一般的には、「人を傷つけないお笑い」あるいは「コンプライアンスへの配慮」というトレンドの終焉であると捉えられている。しかし少なくとも5年以上前から「ソルジャー」(『ウエストランドのぶちラジ!』リスナー)である自分からみれば、そのような評価にはかなり違和感がある。 優勝以来、ウエストランドは様々なメディアでインタビューを受けているが、自分たちを反コンプラ時代の寵児として扱われることを井口はかなり警戒している。その話題になると井口は相槌すら返さないし、露骨に話題を変えようとする。逆にパンサー向井のラジオでは、悪口漫才の時代が来たとは思わないという向井の見解に、井口は同意しているのである。 私の考えでは、ウエストランド井口は、毒舌によって建前を壊すことが笑いになると考えているよりは、建前を理解しつつも偏見や悪意が現れてし
宇宙小戦争 3月に公開された『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』は、1985年の旧作ストーリーを全体的には踏襲しつつ、幾つかの点で改変が見られた。「女の子を危険な目に合わせるわけにはいかない」から「君ひとりを危険な~」への台詞変更などジェンダー的視点からの改変もみられたが、根本的な作品テーマに関わる変更としては、巨大化が果たす役割の違いがある。 旧作では、巨大化はドラえもんたち及びピリカ星を救うための決定的な役割を持つ。今作でも、巨大化はドラえもんたちの生命にとっては確かに決定的なのだが、巨大化が始まる前から革命はすでに始まっている。ピリカ市民を決起させたのは巨大な異星人たちではなくパピの演説である。パピは姉を救うために独断行動したとみられていたが、実はそうではなかった。パピは自身と姉の生命をもろとも差し出して、ピリカ市民を立ち上がらせようとしたのだ。物語の転換点はこの瞬間にあ
今年5月に『ニューズウィーク日本版』に書いたコラム「入管法「改正」案、成立すれば日本は極右の理想郷になる?」が、雑誌『正論』8月号に掲載された評論家の三浦小太郎氏の記事「ウイグル人救えた入管法改正案」で批判されていたので、簡単にだが応答してみよう。 まず、満州国の「多民族国家」性を肯定してみせたり、フランスの国民連合を極右として認めなかったりしているのは、いかにも偏向した「保守」的世界観であり、ご愛敬といった感じだが、ここでは特に触れない。 このノートで問題にしたいのは、私が5月のコラムで批判した入管法改正案の三浦氏による擁護である。三浦氏はまず、この法案の重大な問題点のひとつとされる、難民申請を二回までに限り三回目以降の強制送還を可能にするルールの採用を、「新しい資料」とともに再申請したものを除く条項を理由に擁護する。このルールによって排除されるのは、「何度も申請要求を同一資料で繰り返し
ドイツ思想史/公法学 連載コラム『現代ニホンの精神史的状況』 https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/ 他にweb媒体・紙媒体ともに、様々な執筆活動や翻訳を行っています。
見る前に知人から胸糞映画だと言われて覚悟していたのだが、実際、胸がスッとするようなカタルシスは最後まで訪れず(史実に沿っているのだから仕方がないが)、見た後も頭痛がしてしばらく落ち込んだままだった。 この映画は黒人差別を扱ったものだが、その描き方については様々な観点から批判がなされている。たとえば古谷有希子は、この映画は公民権運動の一部としてのデトロイト暴動の背景や意味について触れることなく、ただその暴力性にスポットを当てており、黒人に対してネガティヴなイメージを喚起する差別助長映画であると喝破している*1。また、Shenequa Goldingも、この映画は「ホラー映画」の演出を用いてしまったことで、それぞれの人物の個性が埋没してしまったことを指摘する*2。やはりここでも問題になっているのは、センセーショナルな暴力にスポットが当たっているため、本質的な問題であるところの人種差別の構造につ
この本の結論、すなわち、我々は「経済と差別というふたつの領域で平等を求める」「ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある」と宣言すべきだという結論*1には異論はない。 だが、私が思うのは、この本の内容に代表されるように、なぜ人は、差別の問題とその解消をひたすら訴えかけるような現在の反差別運動にひとつの行き詰まりを感じてしまうのか、ということである。小説でもテレビドラマでもよい。10年前、20年前、30年前のコンテンツを見てみるがいい。いかに現在の視点からは耐え難い差別表現が随所にみられることか。そしてそれらは現在、いかに解消されてきたことか。現在のバックラッシュが激しいとはいえ、昔からバックラッシュはあったのであって、今日がこれまで続いてきた反差別運動の最終地点だと主張する根拠はないだろう。 とはいえ、現在の反差別運動がとりあえずぶち当たっている問題につい
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