サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
2025年ランキング
t-s.hatenablog.com
t-s.hatenablog.com 12年も前の記事で故国友やすゆき先生の漫画『総理の椅子』を取り上げた。 その後、この記事などでは「現実が漫画『総理の椅子』の方に近づいている・・・。」などとコメントした。 さて今回。 「イメージ戦略やら裏でネットを使った工作やらで総理にまで上り詰めた新総理が、国会で既に緊張関係にある隣国に対して官僚の用意したコメントを捨てて独断でその隣国をことさら挑発する言葉を発する」という内容が『総理の椅子』にはあった。 あれ・・・? 本格的に現実がこの漫画を追いかけて来てるではないか。 この漫画の結末から考えると恐ろしい話である。
(丙)吉又嘗出、逢清道羣鬬者、死傷橫道、吉過之不問、掾史獨怪之。吉前行、逢人逐牛、牛喘吐舌。吉止駐、使騎吏問「逐牛行幾里矣?」掾史獨謂丞相前後失問、或以譏吉、吉曰「民鬬相殺傷、長安令・京兆尹職所當禁備逐捕、歳竟丞相課其殿最、奏行賞罰而已。宰相不親小事、非所當於道路問也。方春少陽用事、未可大熱、恐牛近行用暑故喘、此時氣失節、恐有所傷害也。三公典調和陰陽、職當憂、是以問之。」掾史乃服、以吉知大體。 (『漢書』巻七十四、丙吉伝) 前漢の丞相丙吉は、道端で死傷者が出ているのを見てもスルーしたが、夏でもないのに牛が暑さに喘いでいるのを見るとそれについて調べ始めた。 これは、傷害事件は別に担当者がいるから自分が直接関わる必要は無いが、異常気象の前兆を察知する事は宰相の仕事である、という職業理念からによるものであった。 宰相というものは森羅万象すべてを担当するのではない、という事らしい。
先日の打線は個人的にはそこそこ自信作だったくらいなのだが、どうも反応が薄いように思えた。 なので、今度は三国志一愛すべき皇帝陛下であるところの魏の烈祖明皇帝様こと曹叡様の「ゴシップ打線」も組んでみた。 あくまでもゴシップであり、真実であると保証しない事柄ばかりであることにくれぐれもご留意ください。 1 右翼 烈祖様、王から降格していた・・・? 2 二塁 烈祖様、実は兄がいた・・・? 3 左翼 烈祖様、即位当初はあまり評価されず・・・? 4 一塁 烈祖様、本当の血統は・・・? 5 三塁 烈祖様、実子はどうして・・・? 6 中堅 烈祖様、鳥に殺された・・・? 7 DH 烈祖様、本当は戦死していた・・・? 8 捕手 烈祖様、宝石に目がくらんだ・・・? 9 遊撃 烈祖様、予言の改竄疑惑・・・?
かつてやった「三国志打線シリーズ」最新版を作った。 今回はあの魏の明帝曹叡こと烈祖様について、である。 1 中堅 烈祖様、魏王朝の三祖を定める。 2 二塁 烈祖様、病気の臣下をいたわる。 3 三塁 烈祖様、幅広い年齢層に開かれた後宮を目指す。 4 DH 烈祖様、嫁不足解消を図る。 5 一塁 烈祖様、仕事の遅れを叱責。 6 左翼 烈祖様、可愛い小鳥を飼育する。 7 右翼 烈祖様、魏のインフラ整備に尽力。 8 捕手 烈祖様、時間を支配する。 9 遊撃 烈祖様、母の怨みを晴らす。 あ、念のため言っておきますが私は烈祖様が大好きですよ!ネタたくさん提供してくれてるし!
漢已平呉楚、孝景帝欲以徳侯子續呉、以元王子禮續楚。竇太后曰「呉王、老人也、宜為宗室順善。今乃首率七國、紛亂天下、奈何續其後!」不許呉、許立楚後。是時禮為漢宗正、乃拜禮為楚王、奉元王宗廟、是為楚文王。 文王立三年卒、子安王道立。安王二十二年卒、子襄王注立。襄王立十四年卒、子王純代立。王純立、地節二年、中人上書告楚王謀反、王自殺、國除、入漢為彭城郡。 (『史記』巻五十、楚元王世家) 漢の高祖の弟である劉交は楚王となった。その孫はいわゆる呉楚七国の乱で反乱者となって滅ぼされたが、景帝によって劉交の子が楚を継ぐことを許された。 その後、楚王は四代にわたって継承されたが、宣帝の地節二年に反乱を企てたとの告発があったため時の王は自殺に追い込まれたのだった。 ・・・あれ?宣帝期・・・? 『史記』というと武帝の頃の人である司馬談・司馬遷の筆であるから、まあ十中八九はこの部分には司馬遷以外による加筆があるこ
劉備據蜀、又分廣漢之葭萌・涪城・梓潼・白水四縣、改葭萌曰漢壽、又立漢徳縣、以為梓潼郡。割巴郡之宕渠・宣漢・漢昌三縣置宕渠郡、尋省、以縣並屬巴西郡。泰始三年、分益州、立梁州於漢中、改漢壽為晉壽、又分廣漢置新都郡。梁州統郡八、縣四十四、戸七萬六千三百。 (『晋書』巻十四、地理志上、梁州) 漢壽。故索、陽嘉三年更名、刺史治。 (『続漢書』志第二十二、郡国志四、武陵郡) 武陵郡。漢置。統縣十、戸一萬四千。 臨沅、龍陽、漢壽、沅陵、黚陽、酉陽、鐔城、沅南、遷陵、舞陽。 (『晋書』巻十五、地理志下、荊州) 劉備は蜀を支配すると広漢郡の葭萌県を「漢寿」県と改称したそうだが、晋の時代になって「漢寿」は「晋寿」と改められたそうだ。 一方、武陵郡にも後漢中期の段階で「漢寿」県があったが、どうもこちらの「漢寿」は晋になっても改称されず、「漢寿」のままだったらしい。 どうでもいいことなのだが、どうして一方は改称さ
魏文帝黄初二年六月戊辰晦、日有蝕之。有司奏免太尉、詔曰「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地眚、勿復劾三公。」 三年正月丙寅朔、日有蝕之。 十一月庚申晦、又日有蝕之。 五年十一月戊申晦、日有蝕之。 (『晋書』巻十二、天文志中) 魏の文帝曹丕は、日食が起こったときに太尉(三公)をその咎で罷免するようにとの上奏を受けて「災異というのは君主を譴責するものであるのに、その咎を股肱の臣に押し付けるなどというのは、夏の禹王や殷の湯王や栗山監督が『俺が悪い』と言ったこととはなんと違うことよ!これからは日食などがあっても三公を弾劾してはならないぞ」と命じた。 つまり、日食という天譴が起こったら、それは三公などではなく皇帝である自分の責任だ、と高らかに宣言したのである。 その翌年正月、日食があった。 その年の十一月にも、日食があった。 二年後の十一月にも、日食があった
佛佛死、其子赫連昌為索虜托跋菇所獲、(毛)脩之并沒。 (『宋書』巻四十八、毛修之伝) 『宋書』には「佛佛」「佛佛虜」と呼ばれる何者かの存在が記されている。 一瞬なんだかわからなかったのだが、「子の赫連昌」ってことは・・・? (赫連)勃勃性凶暴好殺、無順守之規。常居城上、置弓劍于側、有所嫌忿、便手自殺之、羣臣忤視者毀其目、笑者決其脣、諫者謂之誹謗、先截其舌而後斬之。夷夏囂然、人無生頼。在位十三年而宋受禪、以宋元嘉二年死。子昌嗣偽位、尋為魏所擒。弟定僭號于平涼、遂為魏所滅。 (『晋書』巻百三十、赫連勃勃載記) 完全に一致。 どうやら「赫連勃勃」のことを『宋書』は「佛佛」と表記していたようだ。 初めて知った。
頃之、代王基都督揚州諸軍事。(石)苞因入朝。當還、辭高貴郷公、留語盡日。既出、白文帝曰「非常主也。」數日而有成濟之事。後進位征東大將軍、俄遷驃騎將軍。 (『晋書』巻三十三、石苞伝) 正元初、石苞來朝、盛稱高貴郷公、以為魏武更生。時聞者流汗沾背、(華)表懼禍作、頻稱疾歸下舍、故免于大難。 (『晋書』巻四十四、華表伝) 石苞は魏の傀儡皇帝高貴郷公のことを「尋常な主君ではない」と最高権力者司馬昭に語り、その数日後に高貴郷公は死ぬこととなった、と言う。 またその一方、石苞は高貴郷公の即位直後に「魏武帝(曹操)の生まれ変わりだ」と評していて、それを聞いた者たちは冷や汗でびっしょりになり、侍中の華表は災いが身に降りかかるのを避けるため、敢えて病気休暇を取ることで難を逃れたという(高貴郷公が暴発した時、ほかの侍中は大変な目に遭っている)。 これらの記事を素直に読むと、石苞は高貴郷公即位直後から彼の能力を
客問曰「周瑜・魯肅何人也?」主人曰「小人也」客曰「周瑜奇孫策於總角、定大計於一面、摧魏武百勝之鋒、開孫氏偏王之業、威震天下、名馳四海。魯肅一見孫權建東帝之略、子謂之小人、何也?」主人曰「此乃眞所以爲小人也。夫君子之道、故將竭其直忠、佐扶帝室、尊主寧時、遠崇名教。若乃力不能合、事與志違、躬耕南畝、遁跡當年、何由盡臣禮於孫氏於漢室已亡之日耶!」客曰「諸葛武侯、翼戴玄紱、與瑜・肅何異而子重諸葛、毀瑜・肅、何其偏也?」主人曰「夫論古今者、故宜先定其所爲之本、迹其致用之源。諸葛武侯、龍蟠江南、託好管・樂、有匡漢之望、是有宗本之心也。今玄紱、漢高之正胄也、信義著於當年、將使漢室亡而更立、宗廟絶而復繼、誰云不可哉!」 (『太平御覧』人事部八十八、品藻下、習鑿歯『側周魯通諸葛論』) かの東晋の史家である習鑿歯は、「側周魯通諸葛論」というものを残していた。 これは、いわゆる孫呉成立の立役者ともいえる周瑜・魯
ちょっとしたことではあるが・・・。 曹操指揮下の将たちは、曹操時代は基本的に都亭侯や郷侯止まりで、県侯以上になるのはみんな曹丕の禅譲以降なんだな。 これは曹操時代は県侯というと孫策とかそういうレベルの連中に与えられるような爵位で、魏公になるまでは曹操自身もそのレベルだったことが主な原因なんだろうけど、働いても働いてもなかなか「上」に行かないというのはストレスを感じた将も少なからずいたことだろう。 董昭が曹操を魏公にしようという理由の中でもそのことが述べられているが、戦が長期化するとこの事態が割と深刻な問題と感じられるようになっていたのかもしれないな。
(司馬)宣王使二千餘人、就軍營東南角、大聲稱萬歳。(諸葛)亮使問之、答曰「呉朝有使至、請降」亮謂曰「計呉朝必無降法。卿是六十老翁、何煩詭誑如此」 (杜佑『通典』兵典三) 諸葛亮と司馬懿(司馬宣王)が関中で対峙していた時のこと。 司馬懿は二千人を動員して軍営の東南の角で万歳を叫ばせた。 諸葛亮が司馬懿への使者にこのことを質問させたところ、「呉が使者を遣わして降伏を願い出たから万歳したのだ」とのことであった。 諸葛亮は「私が見るところ、呉はそのようなことはしないだろう。あなたは六十歳にもなる老人だというのにこんなに人を誑かそうとするとは」と言ったという。 おそらく司馬懿へ宛てた言葉なのだろう。 つまり、司馬懿は諸葛亮陣営を動揺させるために呉が降伏したと偽装したが、諸葛亮は取り合わなかった、ということのようだ。 この話の大元の出典はよくわからないが、とりあえず『三国志』および裴注では見なかった気
子孫為三都尉封侯者五十餘人。尚書令樊建・侍中張紹・光祿大夫譙周・祕書令郤正・殿中督張通並封列侯。 (『三国志』巻三十三、後主伝) 蜀漢が滅んだあと、晋によって蜀漢の遺臣や子孫は「三都尉」や列侯にされたという。 列侯はいいとして「三都尉」とは何かというと・・・。 奉朝請、本不為官、無員。漢東京罷三公・外戚・宗室・諸侯多奉朝請。奉朝請者、奉朝會請召而已。武帝亦以宗室・外戚為奉車・駙馬・騎三都尉而奉朝請焉。 (『晋書』巻二十四、職官志) 奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉の三つの都尉のことを言うようだ。 これらは本来は皇帝の側に仕える側近の武官とでも言うべき存在であり、貴人や朝臣が集う朝会に参列するが具体的な職責は無いに等しいという名誉職であった。 そのため外戚や皇室といった、高い地位は与えたいが強い権限は与えたくないという者に与えられることが多かったようである。 蜀の遺臣や子孫が与えられたのもそういう
麗山西北有温水。祭則得入、不祭則爛人肉。俗云、始皇與神女遊而忤其旨、神女唾之生瘡。始皇謝之、神女爲出温水。後人因以澆洗瘡。 (『水経注』渭水注引『三秦記』) 麗山(驪山)というと始皇帝の陵墓のあった地であるが、ここには温泉があったそうだ。 そして、そこにはこんな伝説があった。 始皇帝はここで神女と遊んで(意味深)彼女の機嫌を損ねることがあった。そうしたところ神女は謎のブレス攻撃を仕掛けてきて、始皇帝はその唾を受けたところが傷になったため、驚いてすぐ誤ったそうだ。 機嫌を直した神女は温水を生じさせてやった。おそらく、それで傷を治せということなのだろう。 後世、その温泉はちゃんと祭事を行ってからでないと入ってはならず、祭事をせずに入ると肉が爛れるという怖い温泉になっていたそうな。 私のような心の濁った者からすると、温泉を商売に使う連中が始皇帝を絡めた伝説を作ってアピールしたんじゃないか、なんて
昔始皇爲塚、斂天下瓌異、生殉工人、傾遠方奇寶於塚中、爲江海川瀆及列山岳之形。以沙棠沉檀爲舟楫、金銀爲鳧雁、以瑠璃雜寶爲龜魚。又於海中作玉象鯨魚、銜火珠爲星、以代膏燭、光出臺中、精靈之偉也。 昔生埋工人於塚内、至被開時皆不死。工人於塚内琢石爲龍鳳仙人之像、及作碑文辭讚。漢初發此塚、驗諸史傳、皆無列仙龍鳳之製、則知生埋匠人之所作也。後人更寫此碑文、而辭多怨酷之言、乃謂爲怨碑。史記略而不録。 (王嘉『拾遺記』) 秦の始皇帝が自分の墳墓を作る際(中国の帝王は生前に自らの墳墓を用意しておく)、金銀宝石を用いて塚の中に海や山や星を再現し、燭台に火をともし続けて明るさを保っていたという。 更に、職人を生き埋めにしてしまっていたが、何とも驚いたことに、漢初に始皇帝墓が暴かれた時(項羽によるものを指す?)、当初は無かったはずの竜や鳳凰や仙人たちの石像が作られていた。すなわち、職人たちは生き埋めにされてからも
哀牢夷者、其先有婦人名沙壹、居于牢山。嘗捕魚水中、觸沈木若有感、因懷■、十月、産子男十人。後沈木化為龍、出水上。沙壹忽聞龍語曰「若為我生子、今悉何在?」九子見龍驚走、獨小子不能去、背龍而坐、龍因舐之。其母鳥語、謂背為九、謂坐為隆、因名子曰九隆。及後長大、諸兄以九隆能為父所舐而黠、遂共推以為王。後牢山下有一夫一婦、復生十女子、九隆兄弟皆娶以為妻、後漸相滋長。 種人皆刻畫其身、象龍文、衣皆著尾。九隆死、世世相繼。乃分置小王、往往邑居、散在谿谷。絶域荒外、山川阻深、生人以來、未嘗交通中國。 ■・・・任 女 (『後漢書』列伝第七十六、西南夷列伝、哀牢) 中国古代、西南夷の「哀牢」誕生伝説。 牢山に住む女性「沙壹」が、水中で沈んでいた木に触れたところナニかを感じ(意味深)、妊娠して子供を十人産んだ、という。 そしてその木は竜の化身であったのだそうな。 同じ西南夷系統と思われる竹王にも似たような「女性
初、卷人維艴、訞言稱神、有弟子數百人、坐伏誅。後其弟子李廣等宣言艴神化不死、以誑惑百姓。十七年、遂共聚會徒黨、攻沒羑城、殺羑侯劉閔、自稱「南岳大師」。遣謁者張宗將兵數千人討之、復為廣所敗。於是使(馬)援發諸郡兵、合萬餘人、撃破廣等、斬之。 (『後漢書』列伝第十四、馬援伝) 後漢初期、光武帝の建武十七年頃に「南岳大師」李広が反乱を起こした。 この李広はもとは維艴という怪しい教祖様の弟子であったが、維艴が誅殺された後、「教祖は死んでなどいない!一段高いステージに登られただけである!」と主張して人々を扇動した。 ついには羑城を落とし、派遣された討伐軍を破るまでに至ったが、最終的には馬援に討たれたとのことである。 カルト教団の教祖は世を去ってもなお人々を惑わせる場合がある、というところか。 むしろこの場合、死んでしまったことで逆に伝説が完成したようなところがあったのかもしれない。
上元元年、尊太公為武成王、祭典與文宣王比、以歴代良將為十哲象坐侍。秦武安君白起・漢淮陰侯韓信・蜀丞相諸葛亮・唐尚書右僕射衞國公李靖・司空英國公李勣列於左、漢太子少傅張良・齊大司馬田穰苴・呉將軍孫武・魏西河守呉起・燕昌國君樂毅列於右、以良為配。後罷中祀、遂不祭。 (『新唐書』巻十五、礼楽志五) 唐代、太公望を孔丘先生(文宣王)の対として「武成王」と追尊し、歴代の良将を「十哲」(孔丘先生の弟子の十哲の対)として太公望に侍するものとしようと考えられたことがあったらしい*1。 その良将は白起・韓信・諸葛亮・李靖・李勣・張良・司馬穰苴・孫武・呉起・楽毅の十人と決めたのだそうだ。 諸葛亮の評価高いな・・・。 *1:長続きはしなかったようだが。
五經通義以為有徳則諡善、無徳則諡惡、故雖君臣可同。 魏朝初諡宣帝為文侯、景王為武侯、文王表不宜與二祖同、於是改諡宣文・忠武。至文王受晉王之號、魏帝又追命宣文為宣王、忠武為景王。 太康八年十月、太常上諡故太常平陵男郭奕為景侯。有司奏云「晉受命以來、祖宗號諡羣下未有同者、故郭奕為景、與景皇同、不可聽、宜諡曰穆。」王濟・羊璞等並云「夫無窮之祚、名諡不一、若皆相避、於制難全。如悉不避、復非推崇事尊之禮。宜依諱名之義、但及七廟祖宗而已、不及遷毀之廟。」成粲・武茂・劉訥並云「同諡非嫌。號諡者、國之大典、所以窅時作教、經天人之遠旨也。固雖君父、義有所不隆、及在臣子、或以行顯。故能使上下邁徳、罔有怠荒。臣願聖世同符堯舜、行周同諡之禮、舍漢魏近制相避之議。」又引周公父子同諡曰文。武帝詔曰「非言君臣不可同、正以奕諡景不相當耳、宜諡曰簡。」 (『晋書』巻二十、礼志中、凶礼) 当初、司馬懿は文侯、司馬師は武侯とい
皇帝祭天、居雲陽宮、齋百日、上甘泉通天臺、高三十丈、以候天神之下、見如流火。舞女童三百人、皆年八歳。天神下壇所、舉烽火。皇帝就竹宮中、不至壇所。甘泉臺去長安三百里、望見長安城、皇帝所以祭天之圓丘也。 (衛宏『漢旧儀』) 漢代の皇帝が天を祭る際は、雲陽宮(左馮翊にある)で百日間斎戒し、それから甘泉の通天台に登るという。 そこで天の神が来るのを伺い、八歳の幼女三百人にマスゲームをさせ、祭壇に烽火を挙げる。 皇帝はその祭壇には行かず、近くの竹宮に居るのだという。 雲陽にある甘泉は長安から三百里の距離で、長安城を眺めることが出来たとのことである。 皇帝が百日間も斎戒するというのが事実なら中々大変そう。 まあ、斎戒といってもどこまでやるのか分からないけれど。 あと、八歳の幼女を三百人も集めて舞をやらせるというのは神降ろしの儀式なんだろうけど、ロリ的にはあまりにも壮観すぎて危険な光景かもしれない。
明皇帝諱叡、字元仲、文帝太子也。生而太祖愛之、常令在左右。 【注】 魏書曰帝生數歳而有岐嶷之姿、武皇帝異之曰「我基於爾三世矣。」毎朝宴會同、與侍中近臣並列帷幄。好 學多識、特留意於法理。 (『三国志』巻三、明帝紀) 魏の烈祖明皇帝曹叡様は、幼い頃より曹操に可愛がられ、後継者へのお墨付きのようなことまで言われていたのだ、と史書は記している。 そして、「母以子貴」という理屈(後継ぎに選ばれた子の母が貴い地位に就く)からすれば、後継ぎを産んだ甄氏は曹丕の正妻に何歩も近づいた。 いや、これはもう曹操による「甄氏正妻確約」みたいなものなのだろう。 だがこれまでのこのブログ等の記事や曹叡様自身の字(元仲)が示すように、どうも曹叡様は長男というわけでもなかったように思われる。 となると、曹操による「後継者&正妻確約宣言」は、曹丕の本来の長男やその母、あるいはそれ以外の寵姫たち全員にとってはとんでもない事
1番 中 曹操 2番 二 曹叡 3番 三 曹丕 4番 一 鍾繇 5番 DH 鍾会 6番 左 費禕 7番 右 虞翻 8番 捕 孫皓 9番 遊 荀紣 1番 中 曹操 言うまでもない畜生キング。畜生界の5ツールプレイヤー。 有名な畜生エピソード、大体史書に出典ありますからね。 2番 二 曹叡 幼女を後宮に入れたロリータ系畜生。 臣下から諫言の集中砲火を浴びるだけのことはある。 3番 三 曹丕 ご存じ畜生エンペラー。 父の側室を自分のモノにして母に絶縁され、弟を毒殺するといったシャレにならない話だけでなく、王忠とドクロとか剣術の天才とかの「スポイルされたお坊ちゃま系畜生エピソード」にも事欠かないところがポイント高い。 4番を打ってもいいくらいの強打者である。 4番 一 鍾繇 言うまでもない畜生界のレジェンド。 彼に関してはこのブログを見ていた人にとってはこれ以上の説明は不要であろう。 5番 DH
張負歸、謂其子仲曰「吾欲以女孫予陳平。」張仲曰「平貧不事事、一縣中盡笑其所為、獨奈何予女乎?」負曰「人固有好美如陳平而長貧賤者乎?」卒與女。 ・・・(中略)・・・ 絳侯・灌嬰等咸讒陳平曰「平雖美丈夫、如冠玉耳、其中未必有也。臣聞平居家時、盜其嫂。事魏不容、亡歸楚。歸楚不中、又亡歸漢。今日大王尊官之、令護軍。臣聞平受諸將金、金多者得善處、金少者得惡處。平、反覆亂臣也、願王察之。」 (『史記』巻五十六、陳丞相世家) かの漢の高祖の謀臣として有名な陳平。 彼については、史書の上でしばしば「好美」「美丈夫」と「美」という形容で表現されており、どうやら見目麗しい男性であったようだ。 さて、そんな彼が具体的にどんな容姿、外見であったのかについては、下記の記事が大いに参考になるであろう。 陳丞相平者、陽武戶牖鄉人也。少時家貧、好讀書、有田三十畝、獨與兄伯居。伯常耕田、縱平使游學。平為人長大美色。人或謂陳
太史公曰、學者多言無鬼神、然言有物。至如留侯所見老父予書、亦可怪矣。高祖離困者數矣、而留侯常有功力焉、豈可謂非天乎?上曰「夫運籌筴帷帳之中、決勝千里外、吾不如子房。」余以為其人計魁梧奇偉、至見其圖、状貌如婦人好女。蓋孔子曰「以貌取人、失之子羽。」留侯亦云。 (『史記』巻五十五、留侯世家) かの漢の三傑と呼ばれた高祖の臣、張良。 彼の容貌は「婦人好女の如し」つまり見目麗しい女性のようであった、と伝えられていたらしい。 留侯張良者、其先韓人也。大父開地、相韓昭侯・宣惠王・襄哀王。父平、相釐王・悼惠王。悼惠王二十三年、平卒。卒二十歳、秦滅韓。良年少、未宦事韓。韓破、良家僮三百人、弟死不葬、悉以家財求客刺秦王、為韓報仇、以大父・父五世相韓故。 (『史記』巻五十五、留侯世家) さて、張良の年齢であるが、ここからわかることが幾つかある。 まず、父が死んで20年後に彼らの故国である韓が秦に滅ぼされた、と
轉為武徳侯庶子。二十二年、坐其宗人吉本等起事被收。先是科禁内學及兵書、而(吉)茂皆有、匿不送官。及其被收、不知當坐本等、顧謂其左右曰「我坐書也。」 (『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』) 『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。 だが吉茂はそれを隠し持っていた。 吉茂の遠縁である吉本が反乱を起こすと、連座して当時武徳侯庶子だったという吉茂も捕縛されたが、事情を良く理解していなかった吉茂は「私は書物を隠していたから捕まった」と言ったのだと言う。 当時、兵書の私的所持がご法度だったらしいというのはなかなか興味深い。 「官に送らなかった」とあるので、単に禁止するというよりは兵書の利用を全て公的機関で統制しようということだったのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130504/1367593429#cにてついたコメントで、東方朔と桃についての話があったので、ここに再掲しておく。 更新する内容とか思いつかないからお茶を濁そうとか、そういうんじゃないんだからね! 漢武故事曰、東郡獻短人、呼東方朔、朔至、短人因指朔謂上曰、西王母種桃、三千歲一為子。此兒不良也、已三過偷之矣。後西王母下、出桃七枚、母因噉二、以五枚與帝。帝留核著前。母問曰、用此何。上曰、此桃美、欲種之。母笑曰、此桃三千年一著子、非下土所植也。 (『芸文類聚』第八十六巻、桃) 漢の武帝の時、東郡がドワーフ族を武帝に献上したが、ドワーフ族はどうやら異界の住人であったらしく、東方朔を「こいつは西王母が種を植えて育てた三千年に一度しか実ができない桃を三度も盗み食いした盗人ヤロウだ」と面罵したという。 そうなると東方朔は九千年以上生きていることに
而桓譚新論以為太史公造書、書成示東方朔、朔為平定、因署其下。太史公者、皆朔所加之者也。 (『史記』巻十二、孝武本紀注『索隠』) 前漢末の桓譚『新論』によれば、司馬遷が『史記』を東方朔に見せたところ、東方朔は論評を加えて「太史公」を称して書き込んだのだという。 『史記』の巻末にある「太史公曰」は東方朔が作ったものだ、というのである*1。 *1:もちろん司馬遷だと言ってる人もいるし司馬談だと言ってる人もいるし、楊綠作であるという説もある。
始皇后葬用大蠶二十箔。 (『太平御覧』所引『三輔故事』) 始皇后すなわち秦の始皇帝の皇后の葬儀の際には大きな蚕の「箔」(蚕に繭を作らせる容器)二十個を用いた。 やっぱり始皇帝の皇后っていたんやね。 【追記】 id:t-hirosaka氏のコメントを読んで我に返った。 考えてみれば、上記は晋代に成立とされている『三輔故事』の記事なので、「始皇帝の皇后がいた」と断言できるほどの信憑性があると言っていいのかは疑問がある。 なので、上記の記事はあくまで「後世にはそんな記事もあるよ」というものだと思って読んでほしい。 ただ、http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20070324/p1で指摘されるように「皇后」という制度自体が秦のものと言われているので、やはり始皇帝の皇后はいたんだとは思うけれど。
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130214/1360771196の続き。 「傾奇者」で「いくさにん」な劉邦で「鴻門の会」を再解釈してみよう。 項王即日因留沛公與飲。項王・項伯東嚮坐。亞父南嚮坐。亞父者、范筯也。沛公北嚮坐、張良西嚮侍。范筯數目項王、舉所佩玉玦以示之者三、項王默然不應。 (『史記』巻七、項羽本紀) 出発前に「先に関中を落とした者が王となる」と約束があったのに理不尽にも項羽が自分を攻め滅ぼそうとしていると知った劉邦。 彼は項羽のいる鴻門へ駆けつけ、整然と自分に敵意がないことを説明した。 ひとまず納得した項羽は、劉邦と酒宴を開く。いわゆる「鴻門の会」だ。 そこで項羽の謀主范増は、項羽に対して「玉玦」を見せる。 「決」つまり「ユー劉邦殺しを決断しチャイナ」という意味である。 だが項羽は動かない。 当然だ。戦場で敵う者のない「いくさにん」項羽だからこそ分かっ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『てぃーえすのメモ帳』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く