ドナルド・トランプ米大統領が今年3月、南米ギャング組織のアメリカへの侵出を防ぐ目的で、「敵性外国人法」を適用すると発表した。

1978年につくられた同法律は、戦時中に敵国出身の市民を法的な手続きなく拘束、追放することを認めている。適性外国人法が最後に発令されたのは、第二次世界大戦中、「日系アメリカ人強制収容」のためだったことを知っているだろうか?
真珠湾攻撃が起きた1942年から終戦後1949年まで続いた「日系アメリカ人の強制収容」。今年2月19日から、その際収容された12万5000人あまりの日系人の名簿が全米各地で公開され、再び注目を集めている。
1942年、ロサンゼルスのリトルトーキョーで写真スタジオを営んでいた宮武東洋さんは、カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所に収容された。当時このような日系人収容所は、マンザナー日系人強制収容所を含め米国内に10カ箇所あった。
この記事では、当時の日系アメリカ人の体験、宮武さんが記録した写真をまとめている。


















1923年、宮武さんは、ロサンゼルス市のリトル・トーキョーに自身の写真スタジオを開業した。
宮武一家が、マンザナー強制収容所の自宅の居間でくつろぐ写真が残っている。

写真スタジオ開業当時、宮武さんは静物の美術写真に情熱を注いでいたと、孫で現在スタジオを受け継いでいるアラン・ミヤタケさんは話す。
収容された際も、自身のコミュニティに起きていることを記録に残すことが写真家としての義務だと心に決めた宮武さんは、収容所に持ち込んだパーツでカメラを自作した。

「収容された1年目のある時、祖父は私の父アーチーにそのカメラを見せ、このようなこと事が二度と起きないために今を記録するのことが自分の義務だと言いました」と孫のアランさんは話す。
続けてアランさんは「収容されたばかりの頃、祖父は監視の目を避けるため日がでていない時間にだけ撮影していました」と話す。
アランさんによると、米国政府に雇われて収容所に来ていた写真家の1と収容前から交流があった宮武さんは、後にマンザナー収容所公式の写真家に任命された。
トランプ政権の移民政策に関する対立が深まる今、過去の移民の経験を学ぶのは重要だ。

今まであまり語られてこなかった、日系人強制収容の歴史。しかし現在は、収容された日系人の経験を広める活動も行われている。NPO団体「WWII Camp Wall」とは、人々の学びのきっかけになることを願い、モニュメントの建設に向けて活動している。
2021年、カリフォルニア州トーランスにあるコロンビアパークにモニュメントを建設するため、州政府による7.5億円相当の予算が成立した。モニュメントには歴史の解説と、強制収容された日系人およそ16万人の名前が刻まれる。
「The Camp Wall Youth Group」という学生主体の団体もある。同団体が製作し、実際に収容された人々へのインタビューやモニュメント建設までの道のりをまとめたドキュメンタリー映画『We See Us In US』が、今年6月に公開された。
世界最大の学生映画際「All American High School Film Festival(全米高校映画祭)」にてノミネートされている。
この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan(前川ロサ)