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東浩紀の『平和と愚かさ』は、読み進める間ずっとわたしの胸を震わせていた。これほどの良書に久しぶりに出会ったと思う。 まったく個人的なことだけれど、2022年頃からなにも言いたくなくなってしまった。年齢的なことや、私的環境のせいもあるかもしれない。でもそれだけではない。一つの契機はたぶん、ウクライナ戦争だった。ロシアの侵攻が始まった時、少なくない人々と同じようにわたしは驚愕し、目を疑い、それからしばらくして、いよいよ来るべき時が来たのかと絶望した。 一番怖いのはインフレではないかと、個人的に思っていた。もちろん、世界は常に緩やかなインフレ状態にあり、それ自体は資本主義の健全性を示しているのだろう。しかし急激なインフレとは、貨幣およびそれを裏打ちしている既存システムへの信頼が揺らぐことであって、一旦失われた信用はもしかすると簡単には戻せないかもしれない。わたしたちの生が依存するシステムは、とて
磯崎憲一郎が「この世界こそ自分の死後の世界である」といった内容の話をしているが、それは例えば、自分の死後も続くこの世界(まだ見ぬ未来)といった想像に対置する形での発言である。 信仰の多くの文脈において「死後に徳を積む」といった発想があり、主の報奨を得るべく現世(ドゥンヤー、下の方の世界)で善行に励む人々が数多いが、よくよく考えれば当たり前の話で、まさに「この世界」こそが「死後の世界」なのだ。それは、過去現在未来という直線があり、その小さな一部に自分の生がある、という、少なからぬ人々が慣れ親しんだモデルからは導出されない。 言うまでもなく、この直線的モデルを全否定しようというのではなく、ある種の文脈においては大いに有効なわけだが、しかし、その文脈が文脈のすべてではない、ということを多くの人々が失念している。それは、世界ということで単一的で不動な何かを想像していしまうナイーヴさであり、自分と世
コロナがいっこうに収まらない中、吉田耕司さんの追悼写真展を訪れて写真を眺めているうちに、とても不思議な気分にとらわれた。 素朴に言葉にするなら「これは誰が撮った写真なのだろう?」とでもいう気分なのだが、もちろん撮ったのは吉田さんに決まっている。 吉田耕司さんとわたしは面識があるが、親しくしていたという程ではない。生前に展示に訪れた際、在廊していた氏と言葉をかわしたことはあるが、エネルギッシュなおじさんが少し苦手なので、ちょっと壁を作っていたと思う。その時は至って元気に見えたのだが、ご病気の知らせをうかがってから間もなく亡くなってしまった。 人が亡くなってしまう時は本当にあれよあれよという間で、それが不可解に過ぎるから葬儀という仕組みがあるのだが、焼香に上がるほどの間柄でもなく、ただ言葉を交わしたことのある人がふといなくなってしまって、宙ぶらりんな気持ちになった。 わたしたちは亡くなった作家
新型コロナウイルス自体はもちろん好ましくないが、それへの対策として行われているものには、どこか好ましく見えるものもある。 少なくとも気候変動や大気汚染等、環境に関する問題は一時的に軽減されているであろうし、リモートワークの推奨も社会変革として望ましい面はある。また古典的な「道徳」(もちろん括弧付きの)により教えられてきた慎ましさや、無駄話への諌めなど、古くからの大衆的な教えに割合に合致する部分もある。 ここから「やはり昔のやり方が正しかった」と軽々に反動化するのはまた別の呪術思考であり非常に危険だが、わたしたちが「外の世界」に対して持つ適切な態度を探り当てる目安にはなる。「外の世界」に対する態度とは、ミーアキャットが穴から出てきてひょこっと背伸びするようなもので、見晴らしを得るためには立ち上がるが、ずっと立っていては目立って危険であるし、身動きも取れない。臆病な動物はすぐ穴に戻るし、大胆な
「for文無限ループURL投稿」について、某所に以下のようにポストしたところ、コメントから進展した話についてメモしておく。 「for文無限ループURL投稿」については、以下のニュース参照。 alertが無限に開く古典的なjavascriptによるイタズラを掲示板にコピー&ペーストした数名が家宅捜索を受け、うち一名の中学生が補導された、ということらしい。 不正プログラム書き込み疑い補導|NHK 兵庫県のニュース 最初のポストあんまりこういうおじさんっぽいネタに口を出したくないのだけど、この件には心肝の冷えるのを覚えた。 大昔からあるただのjsのalertループ、しかも掲示板にコピペして家宅捜索。なんということだろうか。 コインハイブの件でもげっそりしたが、開発者マインドを削るとか萎縮させるとか、そんなレベルではない。 雨上がりの学校帰りに小学生が傘を柵に打ち付けて「カンカンカンカン!」ってや
たとえば、支那という言葉はchinaのことであって、本来的には別段悪意や価値判断を含むものではなく、一方で日本で中国と言えばそれは岡山とか広島とかあの辺りのことを指す、支那を支那と言って何が悪い、というのは一理あるが、同時にまた、歴史的事情などから当の中国人が支那の語を嫌がるのであれば、使わないで言い換えておけば少なくとも揉め事が減る。支那でも中国でもどっちでも良いならその方が楽である、というのは良し悪し以前にプラクティカルな判断として成り立つ。この後者の考え方、薄まりすぎてそれがリベラリズムと気づかれることすらなくなってきた普遍化したリベラリズムのようなものは、昨今ではある一定の層にとって当たり前のもので、わたし自身この感覚を当前視して育ってきたが、しかし、これもまた、当事者の主体性という、同様に当然視されすぎた考えに寄って立っている。人間主義、ヒューマニズムであって、ここには人間しかお
「○○が蔓延っては国が滅ぶ」などといった雑で下品な雑言を浴びせられた時、なぜ素直に「滅ぼしに来ました」と言えないのだろうか。 「ボクたちは無害ですぅ~」「いじめないで~」「多様性! 共存!」みたいな情けない態度ばかりが目につくが、自ら進んでいじめられに行っているようにしか見えない。 スポーツだって、常識的に考えて勝ったり負けたりするものだが、「勝ったり負けたりする」などと思っていては勝てる勝負も勝てない。「絶対勝つ! ぶっ殺す!」くらいで行って、やっと勝ったり負けたりする。 「いても邪魔になりません~」ではなく、邪魔しに行けば良いではないか。国など大いに滅ぼせば良い。それでやっと畳一畳、寝起きに困らない程度の領分を奪い取れるというものだ。それとも、結果成り立つ共存というよりはむしろ拮抗を、神ならぬ人の分際で自由にしようとでも言うのか。安全圏の外野はそういう無責任なことを言うかもしれないが、
例えば普通に会話している中で「それはつまり○○ということですよね!」といった台詞を差し挟むのにはかなりの慎重さが要求される、ということは普通のコミュニケーション能力を持った人間なら誰でもわかるだろう。目上の人間相手の時はとりわけ気をつけないといけない。 完全にNGというわけではもちろんない。話を聞く中で「わたしはただボーッと聞き流しているわけではありませんよ、頭を使って聞いていますよ」ということを示すサインとして、これに類する台詞を入れることはある。 要は程度とタイミングで、絶妙な間合いでたまに気の利いたことを言う分には「こいつなかなかわかってるな」と思わせられるだろうが、そうでない場合には単に生意気や失礼になるし、自信がないなら余計なことは言わない方が身のためだろう。1 新しいことを学ぶ時や少数者の理解といった場面でも似たことが言える。 この頃はとにかく「理解をすすめる」みたいな言い方を
Hagex氏の話はどこか村崎百郎を思い出させる。経緯は全然違うのだけれど。 刺して良いとは全く思わないけれど、刺す以外なら何でも許されるわけでもない。実際、調子に乗っていれば刺される以外の報いを色々受けるのが世の中だけれど、中には刺す以外にやり方を知らない人、方法を奪われた人たちがいて、そういう一番(色々)弱い者が刺す。刺された者を聖人化しようとも思わないし、刺した者をことさら晒し者にしようとも思わない。もう十分晒し者にはなってきたのだろうから。 「犯罪者」を前にして、自分の方が娑婆にいることをどこか後ろ暗く思うくらいで真っ当ではないのか。 彼らが(色々と)弱かったお陰で、わたしたちは相対的に多少は強かったのだから。 強い弱いで語るその切り口自体が既に地獄の入り口なのだけれど、少なからぬ人びとはもう入り口を過ぎて道半ばまで進んでいて、引き返すことができない。 強いて言えば、あなたの目の前に
今の関係を壊したくないし、少しでも傷つける(可能性のある)ことをしたくないから、変なことはしない、というのはまあ普通にあるし、少しもおかしくないのだけれど。 それはそれで無責任じゃないのかしら、とも思う。思った。 人と人が関われば、故意にではなくてもうっかり傷つけてしまうことはあるし、距離が近くなればなるほど、そういう可能性は高くなる。わざとではなくても、嫌な思いをさせてしまうことはある。 色恋圏領域になんて入れば、まったく踏まずに歩くなんてほぼ不可能ではないかと思う。 問題は、踏んでしまった時、傷つけてしまった時、その後だろう。 「わざとじゃないから」「わたしのせいじゃないから」と逃げるのか。 わたしはあなたを傷つけてしまうかもしれない、けれどもその時、傷の手当に最後まで付き合います、というのが本当の責任ではないのかしらん。 だからこの時、誰が傷つけたのか、故意か否か、なんてことは、一番
不良が心を入れ替えて頑張る姿を称揚するのはいかがなものか、はじめから真面目にやっている人間の方がずっと偉い、という話は、最初の頃は「確かにもっとも」と思ったものだけれど、もういい加減聞き飽きて「ぐだぐだいつまでもうるせえよ」というか「そんなに褒めて欲しかったのか、可哀想に」という感想しか出てこなくなった。 もちろん、「最初から真面目にやるのが一番」と信じて実践、なおかつ不良の更生称揚についても「それはそれで立派」と言えるデカイ方たちも沢山いらして、この人たちには素直に頭が下がる。 しかし「更生を持ち上げるとは笑止千万」とかわざわざ発言してしまう人は、もうその時点でそこにリビドーが備給されている訳で、「なんであいつばっかり! ボクのことももっと褒めてよ!」というのが透けて見えてしまう。褒めて欲しいなら褒めて欲しいと言えばいいし、注目されたくて馬鹿が川に飛び込むのは自然の摂理だ。飛び込まないで
飛距離ということを考えている。 たとえば最近ここに書いているようなものは、軽いボール投げみたいな感じでポーンと放って、まぁ飛ぶところまで飛べばいい、飛ぶも良し飛ばないも良し、といった程度に見ていて、非常に短いブログ用の文章というのはそれでも良いのだけれど、もう少し遠くの世界を見たいと思えば思い切りボールを投げる必要があって、かつわたしは遠投が苦手だ。遠投というのは文字通りの遠投のことで、確か中学生くらいの時はなんとか投げとかいって大きなグリップしにくいボールを投げさせられた記憶があるのだけれど、これがまた全然飛ばなかった。砲丸投げみたいな投げ方しかできない。その後身体は色々鍛えたので、普通のボールならまぁ、素人のキャッチボール程度くらいはできるけれど、握りにくいボールを頑張って遠くまで投げる、みたいなことは今でも下手だと思う(やっていないのでわからないけれど)。 まだ余談が続くのだけれど、
音楽が鳴っている、とはどういうことだろうか。 たとえばわたしは、寝ている時は大抵音楽が鳴っていると思うのだけれど、これは、音楽が聞こえている、ということではない。などと言うと、脳のナントカという部位が活動しているとか言いたがる人がいるけれど、そんなメトニミー的置き換えをしたところでどうにもならない(意味作用とならない)。 別段寝ている時の話などしないでも(しかし寝ている、ということは大切ではある)、鳴っている、という経験は、聞こえている、という経験とは同一ではないもので、普通にカフェかどこかで音楽が鳴っている時でも、大抵は音楽など聞いていないし、そもそも聞くようにカフェの音楽というのはできていないし、それを敢えて聞くという経験は可能だし時々するわけだけれども、やはり大抵は聞いていなくて、でも鳴ってはいる。鳴っている、というのは、聞くか聞かないかとは独立の単なる客観的記述のようではあるけれど
「目に見えない障害」を負った人がそれをわかるように提示する「ヘルプマーク」なるものがあるそうです。東京都の創案らしく、マタニティマークと同様、それによって「優先席に座る正当性」などを示すものらしいです。 報道を見てまた暗澹たる気分になりました。 念のためにおことわりしておけば、こうしたアイデアが悪意から来るなどとは全く思っていませんし、また実際的にポジティヴな効果をもたらす可能性も否定しません。総じて見てプラスなのかマイナスなのかは知りませんが、多少なりとも「良い」結果のいくらかくらい見せてくれるのでしょう。 うんざりするのは、こうしてなにもかも「わかる」形で示させなければ気が済まなくなってきた世界に対してです。 わかる形で見せる、可視化が無闇に称揚されることは、わからないものに対する無神経さと裏腹であり、またきちんと示さなければ自己責任、ということとも表裏一体なわけですが、より大きく言え
世界には理由が不足しているので、理由の要らない方に流れます。 「要理由度」みたいなものの高低があって、それが低い方に流れるということですが、とりあえずこれを「選択」にしておきましょうか。 理由が運動エネルギー、選択が位置エネルギーみたいに考えると、理由がガガーッとあれば選択の高い方でも行けるのですが、まあ大抵は理由不足なので、選択の要らない方に流れますよね(理系の方、ゴミみたいな比喩を使ってごめんなさい)。 選択的夫婦別姓については特に誰も傷つけずに為しうる善は、より一層見えにくい地獄への扉でしかないでちらっと触れましたが、「選択できるんだから同姓にしたい人も何も失わない」というのはレトリックですよね。選べるようになった時点で同姓には同姓の理由が必要になる。もちろん、今まで原則同姓でやってきた以上、その流れ自体でつけられた轍みたいなものがあって、しばらくであれば同姓の方が選択の低い側、楽ち
おセンチなことはどこに書くのが正解なのかしら。わからないから、試しにここに書いてみよう。 割と言われることかもしれないけれど、記憶というのは共通の記憶であって初めて強化される。 記憶そのものは頭の中にある、という体になっているけれど、不断に想起され記憶し直されることで定着する。定着した記憶はもう物語となってしまって、概念化し、既に生の記憶ではないのだけれど、わたしたちはそういうものを「記憶ということにして」生きている。 だから昔の人たちは、祖先たちの記憶を年に一度の祝祭にして、半ば無理やりにでも忘れないようにしたのだろう。 本当の生の記憶が生きる場面というのは驚くほど少ない。 子どもの頃の記憶として思い出されるもののほとんどは、成長の過程で他人視点から聞かされ想起され定着していったものだろう。生の記憶など最初からなく、聞かされた物語を記憶として取り込んでしまったものも多々あるかと思う。 そ
変にわかってしまうといけない、ということは何度も書いているので今更繰り返しませんが1、わかるように書くべきか、というのも微妙なお話です。 加藤典洋先生が「自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書く」ということを仰っていて、これはこれで一般的な指針でよく理解できるわけですが、そういう人を安心させることをやってしまって良いのか、良い場合だけでもないだろう、と考えています。 「わかる人にはわかる」というといかにも独りよがり的に響く訳ですが、ある一定の層より外に漏れ出ていかないよう、その外の人が目にしても「なんじゃこりゃ」と読むのをやめて貰えるように書く、ということはあります。 丁度暗号文のような要領ですが、そもそも言語自体暗号文のようなものであって、放っておいても自然に意味が浮かび出てくる、というものではありません。 そういうと言語能力や語学力の話になってしまいそうですが、言語を解す
罰したい、という欲が様々なものを回している。 害されたから報復したい、というのとは異なる。自分自身、または近しい者が何らかの被害を受け、それに対し仕返しをしたり償いを求めたりするのは、復讐というものであって、ここで言う「罰したい」とは違う。 自分自身が直接的に何ら害を受けていないけれど、ある対象が「罰されるべき」ものとして映り、何らかの形で「報い」を与えようとするもの。 いわゆる「バカッター」的な事例で、被害者でもないのによってたかって吊し上げにしようとする心理、著名人の不適切な行い、性的醜聞に群がり「社会的制裁」を加えようとするもの。 「罰したい」がこれらを駆動している。 罰している時、人は自分より大きなものと一体化できる。自分の受けた害に対し報復しているのではないのだから、超自我的な法の水準に立って、あたかも個を越える強大な力を纏ったような気分に酔える。 悪というのは弱いものだ。 一般
「選挙に行こう」キャンペーンというものが実に胡散臭いです。 最近は投票に出かけると一杯無料、みたいなサービスも出ているようで、国家の作為というより、どこかオリンピック的というか、「人民の自主参加」による投票運動、というポストモダン的な状況が出来上がっているようにも見えます。 選挙に行くのは良いことではないか、多くの人々の政治意識を高めて民主主義をより良いものにすることの何が間違っているのか、等と言われるかもしれません。確かに、今わたしたちの暮らしている社会状況の中で、選挙に行くこと自体は、人のものを盗んだり猫をいじめたりするような種類の「悪いこと」ではありません。老いた親の肩を揉む程度には、ぼんやりと「良いこと」とされているものです。だからこそ、このキャンペーンは不気味なのです。 表立って異を唱えにくいことを、ただ肯定に肯定を重ねるが如く繰り返す。この気持ち悪さをわかりやすく表現するなら、
良いテロリストのための教科書 外山恒一の新著『良いテロリストのための教科書』です(以下敬称略)。 当初の案では「愛国者のための左翼入門」だか、そんな感じのタイトルだったらしいですが、版元の意向で外山が街宣でよく使っている「良いテロリスト」というフレーズを入れたようです。 この版元が版元なので、その時点で「絶対買わない」という方もいらっしゃるでしょう。わたし個人はそこまでの思いもないですし、そもそも不買という闘争手段を心底馬鹿にしているので、普通に購入致しました。 版元の問題ということでは、タイトルがどうとか思想性がどうとか以前に、表紙のデザインが酷すぎます。噂では版元の社長さんが撮影された写真のようですが、野本由佳子撮影による挿入写真の一枚を表紙採用するだけでもグッと良くなった筈です。尤もその辺は販売戦略?にもよるのでしょうし、わたしのセンスがズレているだけで、意外とこういう方が売れるのか
テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗、「正論のまかり通る」時代で書いてきた意味の張り付いた精神病的世界(⇔神経症的近代)という意味で、世界は固定的な物質と化していっています。スターリニズム的ディストピア、「科学的社会主義」が地上を覆おうとしています。 精神医療の世界では1952年のクロルプロマジンの発見以降、次第に薬物療法が支配的となり、精神医学の化学への還元が推し進められました。今やどこの町医者でも気軽にSSRI等が処方され、その問題点も各所で指摘されてきてはいますが、大きな流れが「化学化」にあることは間違いありません。同時にDSMやICDに象徴されるアメリカ流の操作的診断が一般化し、かつての病因論的視点はますます背景に遠のいています。 これらに合理がないと言うつもりは全くありませんし、かつて見られた属人的で恣意的な判断が廃されることで、マクロな規模で奏効しているからこそ、こ
昨夜の外山恒一トークライブで質問と称して延々と喋らせて頂いたPCと抵抗の問題、およびTwitterでの連投について、簡単にまとめてメモしておきます。 なおこの件は先日の表現の勝手、テロだけがテロじゃねえ(このエントリ中に貼ったDADA101イベントでのわたしの質問とも関連)と、何度でも繰り返し取り上げる良い抵抗と悪い抵抗などというものはないに深く関係しています。 質疑応答の中でどなたかがPCやバリアフリーの問題を、確か先日起こった車椅子の木島さんの問題と絡めて質問されました。そこで外山氏が「PCというのは基本的に『正しい』からね。これとどう戦うのかというのは、すごく難しい」ということを仰っていて、改めて氏の慧眼、そして氏の問題系の根本がここにあるということを確信したのです。 外山恒一は反管理教育に始まるナイーヴな社民的運動をスタート地点としながら、マルクス主義を経てファシストを名乗るように
前にもどこかで同じことを言った気もしますが、包丁を持って転ぶことについて考えています。 ある人が包丁を持って転んでしまい、うっかり友人を刺してしまったとします。勿論、わざとではありません。わざとではありませんが、刺してしまったのは事実なので、謝ったとします(それもできない人もいますが)。そして重要なことに、刺された側もこの謝罪を受け入れて許したとします。これもなかなか難しいとは思いますが、仮定の話ですので、心から100%許したとします。 元より意図的に刺したものでもなく、謝って許したのなら、罪の問題としては一通り清算されていると言えます(法的な過失責任といったことは、喩話なので一旦脇に置いて下さい)。しかし刺された傷がこれでスッと消えてしまう訳ではないですし、一生残る傷跡ができるかもしれませんし、死んでしまうかもしれません。誰が悪いというのでもなく、刺した方にとっても刺された方にとっても不
言うまでもなく、頑張ればなんとかなるというのは端的に嘘なのですが、この手のお話というのは単に事実を映そうとするものではなく、ある種の世界観、物事の見方、理想を含むサンボリックなものを示そうとしています。ここでの理想とは、例えば「努力が報われる社会」です。本体はこちらの方で、こちらこそ問題にしなければいけません。それは、努力とそれに対する(社会的)報奨、という二項的関係です。 まず、割合に卑近というか、俗世的なお話をすれば、この二項的関係というのは自己努力自己責任の世界です。(たまたま)うまく行った人はその人の自己努力のお陰、(たまたま)うまく行かなかった人は自己責任、ということで、ベタなことを言えば、搾取と格差の構造を固定化させる方向に働くわけです。うまく行った方が勝手に自画自賛している分にはまだマシですが、行かなかった人までもが牙を抜かれてションボリさせられます。というより、正にそのよう
有名な予備校の先生が「勉強は贅沢品なんだから、やりたくなければやめればいい。自分がいかに恵まれているかもわからない人間が勉強したって意味がない」という趣旨のことを仰って話題になっていました。 林修先生の「勉強が嫌ならやめなさい、それは贅沢品なんだから」という主張に賛否両論の意見が集まる – Togetterまとめ この先生の仰ることは、内容自体としては誠にもっともだと思うし、わたし自身、勉強は道楽だと考えています。筋道も立っているし、交換経済的というか、対価を支払って教師に指導を受ける、というのは理屈としてスッキリしています。 ただ一方で違和感というのもあって、それは正にこのスッキリ感そのもの、共時的な構造の明晰性のようなところ自体から来ています。 人間、ある時の判断が正しかったかどうかというのは、少し経ってからわかるものです。もっと言えば、すこし経って「わかった」、その判断というのも、更
共謀罪でも何でも良いのだけれど、何らかの「安定化」を目指すものというのは要するに現状・現体制の強化を目論むものだ。もちろん悪いとは言わない。その現状・現体制の中には一応わたしたちも含まれていて、なにはともあれ今日までこの世界で生きてきたのだから、現状維持すれば明日明後日あたりまでは生きながらることができるかもしれない。少なくとも、「この世界」にわたしたちは大分慣れているし、年齢を重ねていればより一層、今に至るこの世の中と一体になって生きている。 とはいえ、本当のことを言えば、そうした施策で本当に特をするのはゲーテッドシティの中に住んでいる人たち、壁の内側にいる人たちだけだ。問題はどの辺に壁があるか、だ。壁がそびえる位置というのはなかなかに微妙なもので、共謀罪と消費税増税でもまた違う。もう一つ重要なことに、今現在壁の外側にいる人たちにも、壁の内側に入るチャンスというのがゼロではない。この「ゼ
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