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note.com/shu_yamaguchi
2017年に上梓した「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」で、僕は過剰に論理に依存して意思決定することで、社会も組織も個人も脆弱になってしまっている、という問題意識を提示しました。 出版当時の状況は「論理」だとか「ロジカル」だとか、その手の言葉が書店のベストセラーの棚で溢れかえっており、「美意識」などという言葉を持ち出すこと自体が、そもそも「論理的でない」と言われましたが、時流に乗ろうとしたそれらの「ロジカル本」の全てが風に飛ばされる木の葉のように世の中から消えてしまった一方で、私のこの本が未だに版を重ねているというのは何とも皮肉なものです。 この記事では、この「美意識」では軽く触れるだけで済ませてしまった「主観と客観」という問題について書いてみたいと思います。 客観は過剰評価されている論理的思考が重視される場面では、しばしば「客観性」が至高の価値として扱われます。客観とは、誰が見て
年末ですね。この記事をお読みの皆さんは、きっとまとまった量の読書をされることを楽しみにしているのではないかと思いますが、本で得た知識はそのままでは人生や仕事には使えません。独学によってインプットした知識を仕事における成果につなげるためには「抽象化」と「構造化」が必要になります。 リベラルアートの読書で得られる「知識」は、ビジネス書で得られる知識とは違って、そのままビジネスの世界に活用することは出来ません。例えば・・・ ルネサンス期において生み出された傑作の多くは、行政組織ではなく、個人のパトロンがスポンサーになっていたケースが多い とか 蟻塚には一定程度遊んでいる蟻がいないと、緊急事態に対応出来ずに全滅するリスクが高まる とか ポリネシアやメラネシアにおいては、部族間での「贈与」が義務とされていて、贈与の連鎖によって部族間での交換が活発化していた といった知識は、それだけでビジネスの世界に
最近、いろんなところで「どうやって本を読む時間を作っているのですか?」といったことを聞かれて、個人的に何か意識していることがあるわけでもないので、答えに窮することが多いのですが、少し考えてみたのでNOTEで共有してみたいと思います。 ここでの留意点は「現実的と言える範囲」です。というのも、いわゆる「読書術」とか「勉強法」に関する主張の多くが、あまりにも荒唐無稽で非現実的だからです。評論家や学者が指摘する「月間に数百冊読め」とか「解説書を避けて原典を読め」といったアドバイスを実行することは、多くのビジネスパーソンにとって不可能でしょう。 不可能なことを突きつけられると人間はモチベーションを失い、やがては堕落してしまいます。読者の中にも、こういったアドバイスを真に受けて実行したものの、途中で挫折して結果的に自信を失ってしまったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。ビジネスパーソンが読書に
相変わらず「リベラルアーツとリーダーシップ」というテーマで色々と考えています。過去にもこのテーマで記事を出したことがありますが、今回はまた少し別の角度から書きたいと思います。 それは リーダーの役割は「論理的に解けない問題」に向き合う ということです。ここでキャリアの進展に伴って、当事者が扱う問題の質や位置づけがどのように変化していくかを考えてみましょう。 一つ目に指摘できる変化が、キャリアの進展に伴って、扱う問題が論理的に正解のない問題になる、ということです。現在の日本に存在するほとんど全ての企業は、マックス・ヴェーバーが定義した官僚型組織のシステムで運営されています。この組織では、次の三点に則って業務執行が行われています。 明確な階層構造を持つ 各階層に明文化されたルールと権限規定がある ルールと権限規定の範囲を超えた案件は階層の上位者に委ねられる さて、この定義に則れば、権限の範囲を
近年、「AIが仕事を奪う」という言説が広く流布しています。しかし、この議論には本質的に重要な前提が欠けています。それは、私たちがふだん「仕事」と一言で呼んでいるものが、実は単一の層で成り立っているのではなく、「職業=Job」「仕事=Work」「作業=Task」という三つの異なる階層から構成されているという点です。 この三層を丁寧に区別して考えると、AIが代替する領域と、代替しない領域がはっきりと見えてきます。そして結論を先に述べれば、AIが直接奪うのはあくまで「作業=Task」であって、「仕事=Work」あるいは「職業=Job」そのものを奪うわけではありません。 むしろAIが作業を引き受けることによって、人間の「仕事」と「職業」の本質が鮮明になる、とすら言えます。 ● Task(作業)──AIが最も得意とする領域最下層の「作業=Task」は、人間の価値創出活動のなかで最も細かい単位の行為で
またまた「コンテキスト・リーダーシップ」に関する記事です。前回の記事では、カーリー・フィオリーナによるHP再生の事例において、なぜフィオリーナのビジョンが機能しなかったか、という問題を取り上げました。 ここからは、ビジョン型を含めた6つのリーダーシップ・スタイルが、それぞれ、どのような状況において有効であり、どのような状況において無効なのかということについて、考えてみましょう。 6つのリーダーシップスタイル指示命令型(Directive)効果的なコンテキスト: 部下が明確な指示を必要としているとき 上司が部下以上の情報や専門知識を持っているとき 指示に従わないと重大な問題が発生するとき 効果的でないコンテキスト: 部下が創造的で自律的に仕事をしたいと思っている時 部下が十分に有能でモチベーションの高い時 ある程度の失敗を許容できるとき ビジョン型(Visionary)効果的なコンテキスト:
以前の記事で、組織コンサルティング会社のヘイ・グループと組織心理学者のダニエル・ゴールマンの共同研究から導出された「6つのリーダーシップスタイル」について共有しました。 下の図がそれですね。 前回の記事では、これら6つのリーダーシップスタイルの有効性はコンテキストに依存する、ということを指摘したわけですが、この記事では別の側面について考えてみたいと思います。 まず質問から入りましょう。この中で「率先」だけが仲間外れで、残りの5つのスタイルに共通する要素があるのですが、それが何だか分かりますか? それは、全て「コミュニケーションの一種」だということです。やり取りされる内容や向きは、それぞれの介入スタイルで異なりますが、これらはすべて「相手とコミュニケーションをする」という行為として共通しているのです。 マネジメントやリーダーシップでは、よく「行動」ということが言われます。もちろん、これはこれ
この記事では、さらに踏み込んで「組織のコンテキストを編集する」という論点で考えてみましょう。 私たちは意味や物語がなければ生きていけませんから、リーダーはメンバーに対して、自分の仕事の意味や自分というキャラの物語中における役割を与えてあげなければなりません。 現在、世界中で「パーパス祭り」といってもいいような状況が続いていますが、これもまた「物語の喪失した時代」における、必然的な要請として、特に先進国で働いている人が「私たちは何者なのか?私たちは何をするのか?」という問いに応えられてくなっている苦しさから生まれてきたものと考えることもできるでしょう。 この問題を考えるにあたって、LCC(格安航空会社)として独自の存在感を放っている日本のピーチ・アビエーションを取り上げてみましょう。 このエピソードはいろんなところで紹介しているので、すでに読まれたことがあるという方もおられるかもしれません。
今日、アファーマティブ・ビジネス・パラダイムのもとで、大きな問題となっているのが、いわゆる「ブルシット・ジョブ=クソどうでもいい仕事」の蔓延です。ブルシット・ジョブは、米国の人類学者デヴィッド・グレーバーが提唱した概念です。 膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心考えている業務の遂行に、その就業時間の全てを費やしている。(中略)こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、私たちの集団的な魂を毀損している傷なのである。 デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ くそどうでもいい仕事の理論」 グレーバーが指摘しているのは「やりがいのない仕事、意義を感じられない仕事に就いて人生に充足感を得られていない人が多い」ということです、これは各種のエンゲージメント調査からも明らかになっています。 たとえばアメリカの調査会社、ギャラップ社のエンゲージメント調査によると「仕事
うーん、こうやって確認すると、「いいね」の数からも、あらためてこのテーマに皆さん関心をお持ちだということがわかります。早く本にまとめますね。 今日の記事は、上記の記事に続いて、コンテキスト・リーダーシップについての考察です。 上記の記事において、 これまでに一緒に仕事をした「最高の上司」の言動と、「最悪の上司」の言動を、リストアップしてまとめてください というエクササイズを紹介した上で、よく「最高の上司」の言動として指摘される「任せる」という行為と、よく「最悪の上司」の言動として指摘される「丸投げ」という行為の違いは、端的かつわかりやすく説明することが非常に難しい・・・実は「最高の上司」と「最悪の上司」は、「行為そのもの」としてみると紙一重だ、という指摘をしました。 今日は、さらに補足的な考察を加えてみましょう。このエクササイズをやると、必ず出てくる指摘があります。 典型的には「最悪の上司
いま「コンテキスト・リーダーシップ」という仮タイトルで本を書き進めています。書籍の主眼は 世の中に蔓延しているリーダーシップ論の多くは「優れたリーダーはXXをする」という行為論として書かれている。けれども本当に重要なのは「文脈=コンテキスト」であって、全く同じ行為であっても、状況や文脈が変わればその行為は「最高のリーダーの行為」にも「最低のリーダーの行為」にもなり得る というものです。 例えば、現在は細かく指示を出し、自身も率先して手を出すマイクロマネジ型のリーダーはあまり歓迎されませんが、私が知るとろこ、救急救命や災害援助に関わる現場チームのリーダーで活躍している人は、まず間違いなく指示命令+率先垂範型のリーダーです。 ということで、まとまった論考は書籍の完成を待っていただきたいのですが、本NOTEでは、書きかけの原稿をちょこちょこと公開していきたいと思います。 ということで、今回は「タ
この記事では、もう少し具体的に、生成AIが僕たちの社会に実装されたとして、次に何が起きるか?という点について考察してみたいと思います。 これから私たちの社会で起きることは、基本的に過去の世界において起きていることの繰り返しです。ですから過去の歴史について知っていること・・・つまり教養が大事だということになるわけですが、では具体的に、過去のどのような事象が、これからのAI革命を考える上で有用かというと、それは産業革命だと思います。 僕の記事では、すでに過去の産業革命の類型化から、次に起きる第五次産業革命の内容について考察しましたが、この記事は広く海外を超えて英訳されてシリコンバレーまで広がったようで「ロボットX 生成AI」の掛け算が、その後、多くの企業におけるアジェンダに記載されるようになりました。 前回の記事は、そういう意味で非常にマクロな観点から産業革命の歴史をとらえたわけですが、一点、
以前に一橋大学の楠木建先生と対談した時に、先生が ストレングス・ファインダーについて不思議だと思うのは、やった人がみんな「納得感がある」と言ってることです。納得感があるんなら「新たに見つける=Find」ではなく「再確認する=Reconfirm」ですよね。そんなことやっても状況は変わらないと思うんですけどね・・・ と言っていたのを思い出します。 僕は読んだことがないので内容について云々することはできないのですが、そもそも「強みを見つける」という考え方ってどうなのかなあ、という気持ちがあります。 というのも、強みというのは絶対的なものではなく、労働市場における需要と供給の関係で相対的に決まるものなので、自分一人だけを分析して見出せるようなものではないだろう、と思うからです。 例えば、創造性に秀でた人がいたとして、この人が広告会社にいれば、周囲にも創造性の高い人たちがたくさんいるので、その創造性
現代において、トランスサイエンスのような定義、つまり科学万能主義に対するオルタナティブを見つける必要性が、60年代よりも強まっていると思います。科学でなければ、何が答えを準備してくれるかを明言することは難しいですが、その答えのひとつとしてあるのは「倫理」でしょう。人間が何をすべきか、何をなすべきでないかの線引きは、科学では用意できません。 村上陽一郎私たちは一般に「決められたルールに従う」ということを無条件に良いことだと考え、何かを判断しなければならないというとき、まずルールを確認し、確認したルールに立脚して判断しようとします。 このような行動規範は当たり前のことであって特に批判されるべきものではない、と思われるかもしれませんが、これがあまりに強く働きすぎると、逆の命題が肯定されるという副作用を生み出すことになります。 それはつまり「立脚点になるようなルールが存在しないのであれば、何をやっ
日本経済の復活という話に付随して、よく出てくるのが「第二のソニー・ホンダは生まれるか」という話なのですが、ああいう大企業は「普遍的な問題がたくさんあった時代」にこそ生まれるもので、これからの社会を考えると、むしろ競争力のある中小企業がたくさん出てきてグローバル市場で勝負してる、という状況を目指す方がスジがいいのではないかと思っています。 たとえばデンマークは、2024年には国際競争力ランキングで1位になっていますが、だからと言って、皆さんがパッと思い浮かぶような大企業はあまりないですよね?せいぜいが海運会社のマースクとか玩具会社のレゴしか思いつかないでしょう。 デンマークでは、全企業の99%以上が中小企業に分類されており、特に従業員50人未満の「小企業」が非常に多い。これは農業国から工業国へ、さらに知識集約型経済へと移行する中で、多様なニッチ市場や専門サービスに強い中小企業が自然と増えてき
クーリエに、最近、ピーター・ティールが盛んにシリコンバレーでキリスト教の布教活動をしている、という記事が出ていました。 人間は全般に年齢を経るごとに霊的な側面が強くなるということは以前から言われていましたが、ティールの場合、いったい何があってこのようなイニシアチブを取るようになったのか?とても興味をそそられます。 日本人からするとかなり違和感があるように思いますが、そもそもアメリカというのはキリスト教が非常に盛んな国で、数万人を収容できるようなメガチャーチがあちこちに建っていて、それが毎週満杯になる、という特殊な国です。こんな感じですね。 Joel Osteen’s Lakewood Megachurch 43,500 weekly attendance 一般に「国が豊かになればなるほど、人々の信仰心は薄れる」という逆相関の関係が見られるのですが、米国はそういう意味では「外れ値」なんですね
What、Why、HowをまとめるこのNOTEの読者の皆さんは、なんらかの形で「知的生産」に関わるお仕事をされていると思います。今回は、この「知的生産」に関して、特に「アウトプット」に関する心得を記しておきたいと思います。 まず、基本的な要件として、知的アウトプットは次の三つの情報から成立するということを押さえておきましょう。 なぜなら、このうちのどれが欠けたとしても、知的生産物は不完全なものとなり、その知的生産物が人のこころを動かし、組織を動かし、社会を変えることはないからです。順に考察してみましょう。 とにかく「行動を提案する」という意識を持つWhatとは、その知的生産物を受け取る立場の人や組織がやるべきアクションです。文学作品や論文ならいざ知らず、企業組織における知的生産は最終的には全て「行動の提案」につながらなくてはなりません。このWhatは、まさに「行動の提案」ということになりま
受け手の反応を考察する前回の記事では、知的アウトプットの構成要素はWhat、Why、Howの三つからなる、と指摘しました。 さて、ここで問題になるのが、その「順番」です。僕はいろんなところでこの点について注意を促していますが、人生でも経営でも行政でも「順番」は非常に重要なのですが、論点として見過ごされていることが多い。 体育館の裏でタバコを吸っている怖そうな転校生が、下校時に捨て猫を拾ってとても可愛がっているのをたまたま見かけると恋が芽生える わけですが、 下校時に捨て猫を拾ってとても可愛がっている優しそうな転校生が、体育館の裏でタバコを吸っているのをたまたま見かけると恐怖が芽生える わけです。 両者ともに「やっていること」は「体育館裏でタバコを吸う」と「捨て猫を拾って可愛がる」の二つで同じなのですが、順番があべこべになると物語の品質と帰結が全く変わるわけです。 だいたいからして、それなり
現代に生きる私たちは、無条件に「自由」を良いものだと考えています。しかし、本当に「自由」というのは、そんなに良いものなのでしょうか? ドイツ出身の社会心理学、精神分析、哲学研究者のエーリッヒ・フロムは、彼の主著「自由からの逃走」を通じて、私たちの「自由」に対する認識に大きな揺さぶりをかけます。 哲学や思想に関する名著は、しばしば「著書のタイトル」そのものがコンセプチュアルに内容を表しているものですが、フロムの「自由からの逃走」は、以前にNOTEで取り上げたハンナ・アーレントの「悪の陳腐さについて」と並んでその白眉とも言えるものだと思います。 考えてみれば「自由からの逃走」というのも、奇妙な言い回しですよね。私たちは「制約や束縛」から「逃走」して「自由」を獲得するというイメージを持っています。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが主演した映画「イージーライダー」は、まさしくそのようなイメージ
これまでに何度か、NOTEでも指摘したことですが、私たちの社会は長期的に見て経済成長率をゼロに向けて低下させています。あらためて、先進七カ国の経済成長率の推移を確認しておけば、次のようになっています。 私は、この状況を「悲嘆すべき停滞の暗い谷間」と捉えるのではなく、むしろ上昇の強迫から解放された「喜ぶべき定常の明るい高原」と捉えるべきだと、さまざまなところで提案してきましたが、このような指摘に対して常に提出されるのが、 イノベーションによって成長の限界は打破できる という反論です。 まさに「終焉の受容の失敗」を感じさせる主張ですが、実際のところはどうなのでしょうか? 最初から結論を言って仕舞えば、この反論はナンセンスとしか言いようがありません。理由は非常にシンプルで、ここ三十年のあいだに私たちの生活をこれほどまでに激変させたインターネット関連のイノベーションですら経済成長の限界を打破できて
VOIDというのは建築用語で「空白」とか「余白」といった意味です。何もない空間のこと。図面上はこんな感じに書き込みます。 一般に都市や建築の領域で用いられる「VOID」というものが、実は私たちの社会や人生において、とても重要な役割を果たしているのではないか?というのがこの記事の主題です。 コロナ・パンデミックによって仮想空間シフトが進んだことで、さまざまな変化が社会に起きていますが、その変化を「都市インフラに与える影響」という側面から考えてみましょう。 現在、リモートワークのトレンドには地域差があって、例えば米国の西海岸では週に2〜3日、東京では週に1〜2日程度が標準的なようですが、仮にこの水準で定着したとすると、東京のオフィス需要はこれまでの4/5〜3/5程度に縮小するということを意味します。 東京都の統計によれば、東京の昼間就業者人口は概ね800万人程度なので、これはつまり、リモートワ
ニュータイプ:肩書きや立場に関係なく、フラットに振る舞う オールドタイプ:肩書きや立場に応じて、振る舞いを変える 誰がそういったか、をたずねないで、いわれていることは何か、に心を用いなさい トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」ヒエラルキーの崩壊いやあ、とんでもない時代がやってきましたね。前回の記事で、一年前のエコノミスト・シンクタンク・金融機関による日経平均株価の予測をまとめてみましたが、まさかこんなことが起きるとは誰も予想だにしなかったでしょう。 人工知能のような社会撹乱要因だけでも私たちの認知機能に目一杯の負荷がかかっているわけですが、それに加えて「何を言い出すか、何をしだすかわからない人」が世界で最もパワーのある国の元首になったことで、世界中が社会的ハリケーンに襲われるような様相になっています。 このような状況がやってくると、いわゆる平時において有効だった経験やスキルの無価値化
イーロン・マスク氏への風当たりが強くなっていますね。欧州どころか米国でもテスラの不買運動が広がっているようです。 記事を読むと、ドイツでは販売が7割減少しているということです。ちゃんとPLを読んでいないので不確かですが、おそらくテスラの損益分岐点は60〜70%程度じゃないかと思うので、このままだとキャッシュが足りなくなると思うんですが、どうするんでしょうかね。 僕は常々、一消費者の立場であっても社会運動は起こせる。あるサービスや商品を購入するというのは、経済活動を通じた社会参加であり、何を買う、何を買わないということ自体が態度表明になるし、その行為を通じて権力に圧力をかけることができる、と言っていますが、欧州や米国では実際にそれが起きている、ということで誠に素晴らしいことだと思います。 マスク氏はこれらの不買運動やテスラ者への攻撃について「テロだ」と反論しているようですが、なに、ものは言い
人の行動を本当の意味で変えさせようと思うのであれば、「説得よりは納得、納得よりは共感」が求められます。論理思考に優れたコンサルタントが往々にして事業会社に移ってから苦戦するのは、論理によって人が動くと誤解しているからです。 では人が真に納得して動くためには何が必要なのか?アリストテレスは著書『弁論術』において、本当の意味で人を説得して行動を変えさせるためには「ロゴス」、「エトス」、「パトス」の三つが必要だと説いています。全部ギリシア語です。 「ロゴス」とはロジックのことです。論理だけで人を説得することは難しいと指摘はしたものの、一方で論理的にムチャクチャだと思われる企てに人の賛同は得ることはむつかしいでしょう。主張が理にかなっているというのは、人を説得するうえで重要な要件であり、であるからこそアリストテレスも『弁論術』において、かなりのスペースを使って「ロゴス」について説明しています。 し
いやあ、お陰様で今年(2025年)の1月に出版した「人生の経営戦略 ライフ・マネジメント・ストラテジー」がとてもよく売れておりまして、一時期はAmazonの書籍総合ランキングの3位まで上がっていました。今まで何度もベストセラーは出していますが、たぶん歴代最高位なんじゃないかな・・・?関係者の皆様に感謝! このNOTEでは、本書の基本的なコンセプトになる考え方を何度か紹介してきましたので、NOTEをずっと読んでいただいている方からすると、本が出来上がっていく過程にお付き合いいただいたような感覚があるかもしれません。 あらためて紹介すれば、本書の基本的な着想は、これまでの人生論・キャリア論に対する違和感から生まれました。本書の抜粋を引きます。 昨今の人生論には二大潮流ともいうべき流派があるように思います。一方の流派のメッセージを端的に表現すれば 残酷な社会ゲームを冷徹に戦って生き残れ。経済的・
2020年代、西洋の没落は始まったのか?「すべての文明は生まれ、成長し、成熟し、やがて老いて衰退する。」 これは、オズワルド・シュペングラーが1918年に発表した**『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes)**の核心的な主張です。 歴史の展開には三つの見方があります。一つ目は、ヘーゲルの「弁証法的発展」です。ヘーゲルは、歴史は直線的に進歩すると考えました。ある時代の矛盾(テーゼとアンチテーゼ)は、新たな合成(ジンテーゼ)へと昇華され、より高次の段階へと発展する。たとえば、封建制から絶対王政、そして近代民主主義へと社会が発展するように、歴史は螺旋を描きながら前進すると彼は考えた。この考えは、マルクス主義の歴史観にも大きく影響を与えました。 **二つ目は、ニーチェの「永劫回帰」**です。ニーチェは、歴史は進歩などせず、無限に同じサイクルを繰り返すと考えました
この記事を読んでいる多くの人は、何らかの形でプロジェクトに関わっていると思います。一般に「プロジェクト」と聞けば、それは職業上のものを意味するわけですが、考えてみれば、プロジェクトというのは「ルーチンワークとは別に取り組まれる特定の目的をもった時限的な企て」ということですから、例えば引越しや旅行やGW中のバーベキューなどもプロジェクトの一種と考えることができます。 さて、ではここで質問です。プロジェクトの成功・失敗は、何によって決まるのでしょうか? カンファレンスやワークショップなどで、このような質問をすると「当初の目標が達成できたかどうか」「成果が出たかどうか」「予算を守れたかどうか」「関係者が満足したかどうか」・・・といったさまざまな条件が指摘されます。 どれも別に間違いではないのですが、このような定義は、プロジェクトマネジメントを実践する上で、あまり洞察を与えてくれないように思います
ルサンチマンというキーワードを提唱したのはフリードリッヒ・ニーチェでした。 ニーチェは文字通りの神童で、博士号も教員資格もないまま、24歳 の若さでバーゼル大学古典文献学の教授として招聘されますが、処女作である「悲劇の誕生」があまりにもアカデミズの定式的な書法からかけ離れた内容であったことから、学会から無視され、また健康上の問題もあって、大学でのキャリアを諦めることになります。常に強度の頭痛に悩まされていた、と言われていますね。大学の職を辞した後は在野のアマチュア哲学者として一生を過ごしました。ちなみに、ニーチェの文章はドイツ語散文の傑作と見なされ、ドイツでは国語教科書にもよく採用されています。 ということでルサンチマンです。ルサンチマンを哲学書の解説風に書けば「弱い立場にある者が、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などの織り混ざった感情」といった定義になります。 平たく言えば「やっ
職場での「よい経験」が成長のエンジン意図的に新しい体験をキャリアに盛り込んでいかないと学習は停滞し、成長は止まってしまいます。同じような仕事を同じようなやり方でン十年続けたとしても、それは「ン十年の経験」にはならずに、多くの場合「一年の経験から学び」、あとは「同じことをン十回繰り返している」に過ぎません。 現在の劣化したオッサンたちの多くは、残念なことにこの「一年の経験から学び、あとは同じことをン十年繰り返した」結果として、現在のような状況に陥っていると考えられます。 これを防ぐためには、自分で「経験の質」を担保する意識が必要だということになるわけですが、ではさて、この問題を考えるに当たって、ふたたび「劣化したオッサン」が大きなボトルネックとして立ちはだかることになります。 なぜなら、多くの企業において「経験の質」を決定する仕事のアサインメントは、オッサンたちが担っている管理職という仕事に
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