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衆議院選挙2026
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木原龍一はフィギュアスケートをやめようとしていた。2019年6月。アルバイトをしていた。
「今年を漢字1文字で表すとしたら……。『一』ですかね。数字のイチ」「あと1勝できなかった、あと1ポイント取れなかった、あと1点が足りなかった。そういう『一』の積み重ねで、すべてが決まってしまったシーズンでしたね」(織田秀和)
2008年の第84回箱根駅伝で、奇跡のような快走を見せたチームがあった。予選会で敗れた大学の選手たちの連合チームである関東学連選抜だ。前年度は最下位に終わっていた“寄せ集め集団”は、のちの名将・原晋監督のもと、いかにして“ひとつのチーム”へと変貌を遂げていったのか。第1回は、初顔合わせからメンバー選考に至るまでのドラマを追った。(NumberWebノンフィクション全3回の1回目/#2、#3へ) 「当時はまだ無名だった」原晋監督のチーム作り もしかすると、池井戸潤さんも、堂場瞬一さんも、箱根駅伝を題材にした小説を書いた際には、あのチームのことが念頭にあったのかもしれない。 2008年の学連選抜チーム。名もなき監督と、名もなき選手たちが紡ぎ上げたストーリーは、まさしくドラマチックで痛快だった。過去最高でも16位相当止まり(初めてチームが結成された2003年の記録だが、この時はまだオープン参加の
「精神的なこと、これも技術のうち」「こういう蹴りが抜きの蹴り。わかる?」――近年、芸人やYouTuberのモノマネの題材となり、注目を集めている佐山聡の“地獄のシューティング合宿”。34年前、その現場を泊まりがけで取材した記者が目の当たりにした壮絶な実態とは……。総合格闘技の夜明け前に滴り落ちた、血と汗と涙の内幕を現代に伝える。(全2回の1回目/後編へ) 「舐めてんの?」なぜ、いま佐山聡がバズっているのか 「俺を舐めてんの? 思い切り蹴れって言ったんだよ。これが思い切りか、お前の。舐めてんのか? 思いっ切りかそれで! やってみろオラァ! 殺すぞこの野郎!」 背筋が凍りつくような怒号とともに、容赦のない張り手が飛ぶ。手にした竹刀で頭部を叩く場面にも遭遇した。 ここはレッドゾーンを超えた教団の修行道場か。それとも、地獄の一丁目か。ひりついた空気が漂う中、異論を唱える者は皆無だった。仮に令和の世
「長野東高校に、玉城さんっていう名指導者が来たみたいだよ――」 今からちょうど20年前の2005年のこと。中学3年生だった小田切亜希は、同じく陸上競技に打ち込んでいた4歳上の姉から、そんな話を聞かされていた。15歳の少女は、初めて耳にするその指導者の名前をふんふんと聞いていた。 「玉城先生」とは現在、日体大の駅伝監督を務める玉城良二のことである。 ADVERTISEMENT 当時、玉城は長野県で公立校の体育教諭を務めていた。 1989年から1999年まで諏訪実業高を率いて、都大路に10度出場。一方で、その後は公立校の教員にはつきものである人事異動を受け、他校で2年、県の教育委員会で3年間勤務した。県教委での主な担当は、スポーツ振興や競技力の強化。県下のスポーツ全体を見る立場となり、陸上競技の指導からは離れていた。当時はそこから長野東に赴任したばかりで、中学生だった小田切がその実績を知らない
“伝説のボクサー”渡辺二郎とは何者だったのか? 現役引退後5度の逮捕、そして“永久追放”……。一方で、日本人として初めて海外で防衛するなど、通算10度の世界王座防衛を遂げた。天才ボクサー、波乱の人生とは。【NumberWebノンフィクション全3回の前編/中編、後編も公開中】 ◆◆◆ 井上尚弥に代表される現在の日本人世界王者が、海外で世界王座の防衛戦を行うことはさして珍しくなくなった。彼らのネームバリューが海外と日本国内の壁を無実化させたことが大きいのは間違いないが、過去、日本人ボクサーは海外で勝てず、白井義男が日本人で初めて世界王座を奪取してから、数えて32年目の1985年まで日本人ボクサーの海外王座防衛は実現しなかった。 日本人として海外で世界王座を防衛した初めての存在は渡辺二郎である。関西のジムで初めての世界王者に輝き、通算10度の世界王座防衛を成し遂げた彼は、1985年のスポーツ界に
落語といえば、言わずと知れた日本の伝統芸能である。座布団ひとつでお客を噺に引き込み、その独自の世界観で魅了する。一方で、そんな伝統の顕現のようなジャンルにも「競技」の世界は存在する。中でも若手落語家の登竜門とされるのがNHK新人落語大賞だ。 今から3年前の2022年、その大賞に輝いたのが立川吉笑だった。熱を見せないことこそが“粋”とされる価値観の中で、吉笑はあえて戦略的に「競技落語」での冠を獲りに行った。そのウラにあった緻密な戦略と、圧倒的熱量のワケとは――?《NumberWebノンフィクション全3回の1回目/つづきを読む》
ロハスを襲った“鋭い痛み” 36歳のロハスは、極度の打撃不振に陥ったアンディ・パヘスに代わって、第6戦から先発に名を連ねた。それまで二塁を守っていたユーティリティのトミー・エドマンが中堅に回り、ロハスが入ったのである。 ロハスは、誰もが一目置くクラブハウスのリーダーだ。タイラー・グラスナウはロハスのことを「最高の毒舌キュレーター」と評している。どんなスターが揃っていようとも、彼は恐れを知らない。 第6戦、ロハスは重要なプレーに絡んだ。9回1死二・三塁、アンドレ・ヒメネスの打球はレフトのキケ・ヘルナンデスへ飛ぶ。前進して好捕したキケは、ノーステップで二塁に送球した。ステップを踏む余裕はなかった。 二塁ベースカバーに入ったのはロハスである。ロハスはキケのワンバウンド送球を体勢を崩しながら好捕、ランナーと交錯して倒れこんだが、ダブルプレーを完成させた。第7戦決定である。 歓喜の輪が出来るなかで、
アメリカ最大規模の日刊紙『Los Angeles Times』は、地元の名門ロサンゼルス・ドジャースにワールドシリーズ連覇をもたらした大谷翔平をどう見てきたのか。長年にわたる大谷ウォッチングの成果を、数々の秘蔵写真を含む印象的な写真と読み応えたっぷりの記事で結実させた、『OHTANI'S JOURNEY 大谷翔平 世界一への全軌跡』(翻訳:児島修)から一部転載でご紹介します。〈全6回/第1回から続く〉 キケが語る“水原一平事件”後の団結 春季キャンプが始まったとき、大谷のそばにはいつも長年の通訳・水原一平(当時)がいて、のちにロバーツが語ったように、チームの面々との間には壁があった。最初のうち、チームメイトとのやりとりの多くはグラウンド上での練習時に限られていて、クラブハウスでは距離があった。水原はチームメイトへのメールを大谷の代理で送っていて、大谷本人はチームのグループチャットにもほとん
◆◆◆ 体重は「最高140キロ→現在は90キロ半ば」 ――先日、永田裕志選手のYouTubeチャンネルに出られて、かなり反響があったんじゃないですか? 中西 まあ、永田選手がすごくPRしてくれてお客様を煽ってもらえたので、それに乗っかって反響があったと思うんですけど(笑)。 ――動画では、中西さんが現役時代と比べてだいぶ痩せられてたので驚かれたコメントが多数書き込まれてましたけど、実際にお会いするとまだまだじゅうぶんゴツいと思いました(笑)。 中西 通常は120キロぐらいだったんですけど。現役時代は、北海道巡業なんかに行くとうれしいことに毎日のようにごちそうになって、最高140キロくらいまでいったこともありますからね。 ――今は何キロあるんですか? 中西 90半ばぐらいじゃないですか。今はトレーニングとかやってないですからね。 ――現役引退して、意図的に体重を落とされたんですか? 中西 い
佐々木の復活劇を演出したのは、ドジャースのロブ・ヒルというピッチング・ディレクターである。まだ、30歳の若さだ。 ヒルは投球動作の解析を行い、なにか不具合があれば、その問題を改善するためのトレーニングをデザインする。 「投手オタク」と言っても過言ではなく、千葉ロッテ時代の佐々木朗希の登板を週に一度、映像で見るのを楽しみにしていたという。 わずか1か月前…9月上旬に始まった 9月上旬、ドジャースが佐々木をヒルのもとに送り込んできた。そのセッションは、質問から始まった。 「どんなことをルーティーンに?」 「いちばん楽に投げられる球種は?」 「11歳の時にコーチから言われたことで、いまも実践していることは?」 問診である。ただしヒルは、佐々木が自分たちを懐疑的に見ても仕方がないと考えていた。なぜなら、 ・そもそも、アメリカ人が自分の投球メカニズムを理解できるのだろうか? ・今季、ドジャースの投手
「正直、今後、研究会の数を減らそうかどうか悩んでいます。意味のある感想戦をできる人が少ないと感じています。基本的な変化や評価値を不勉強で知らなかったり、読み筋について質問しても大して読んでいなかったりすることが多いんです。藤井さんはまずそういうことがないので」 このセリフを吐ける棋士は永瀬しかいないのではないか。現状、この悩みにはどういう結論を出したのだろう。 「一定数はやりつつ、増やすことなくって感じです。勉強の課題が山積みになっているので、人と指すばかりの時期は過ぎたのかなという感じがしています」 一人でAIに向かう時間が確実に増えているのだ。 私は研究会をやりすぎていたために… 大事なことを聞き忘れていた。今シリーズを経たうえで課題が浮かび上がったことはわかったが、収穫面はどうなのだろう。すると意外なことに、この研究会についての話とつながったのである。 「藤井さんの勝ちパターンの話を
佐々木朗希が遂にメジャーへ帰ってきた。 リリーフ崩壊…ドジャースを救えるか? ロッテ時代からのトレードマークだった100マイル(約161キロ)超えの剛速球を取り戻し、満を持しての復帰。するとさっそく、9月25日の対ダイヤモンドバックス戦にリリーフとして登板し、2奪三振を含む1イニング三者凡退に抑えた。最高球速も160キロ超え。打ち込まれるドジャースの救援陣に投入されるとあって、チームの救世主になるのではないかと期待されている。 佐々木の球速低下は、ロッテ時代から長く引きずってきた難題だった。メジャー移籍を決めた昨オフの契約交渉では、獲得に手を挙げた各球団に「なぜ球速が落ちたのか、理由と解決策を提示せよ」と宿題を出したことで有名になり、佐々木の球速低下はますます注目された。メジャー1年目の今季も球速が出ない登板が続き、右肩インピンジメント症候群のため5月13日から負傷者リスト入り。復帰を目指
「いやもう本当に……奇跡が起きたなという感じで。別に関東大会、インターハイを目指しているような部活ではないですから」 同校水泳部顧問の吉野修司は、そんな風に苦笑する。 喜ぼうにも関東大会に来ていたのは吉野以外に出場選手4人だけ。当然、スタンドには吉野しか残っていなかった。レースが終わると吉野は、一人で小さくガッツポーズを作っていた。 もちろん基本は個人競技の競泳である。 仮に開成のような入学難易度の高い超進学校であっても、個の選手で全国レベルに達することはこれまでも稀にあった。だが、今回はメドレーリレーである。 「メドレーリレーで全国」の難しさ 背泳ぎ→平泳ぎ→バタフライ→自由形と、異なる4つの泳法を繋ぐため、特性の違う各選手がそれぞれ全国クラスの力がなければインターハイに駒を進めることは難しい。しかもただでさえ激戦の都大会を抜けなければ、関東大会に出場することすらできない。 そんな高いハ
多くのドラマを紡いできた高校生クイズ。43年の歴史の中でも異色のコンセプトとなった2018年大会は「双子の天才プレーヤー」を世に放つことになった。伊沢拓司らに憧れ、競技クイズに人生を懸けた兄弟が歩んだ、波乱万丈の旅路とは?《NumberWebノンフィクション全4回の初回/第2回、第3回、第4回に続く》 目の前にあった数字は、38位。「惨敗」と言っていい結果だった。 ラ・サールと言えば、高校クイズ界では言わずと知れた名門のひとつである。『高校生クイズ』での優勝はもちろん、全国大会への出場回数も全国トップクラス。この年までも実に11大会連続での全国出場を果たし、競技クイズの世界でも多くの有力選手を有していた。 ところがこの年、ラ・サールは問のチームだけでなく、他の選手も含めて全国大会に進むことができなかったのである。 波乱の大きな理由は、ライバル校の破天荒な動きによるものだった。問が振り返る。
女流棋界の最高峰であるヒューリック杯白玲戦。今期からは優勝賞金が1500万円から5000万円(特別賞の1000万円を含む)に大幅増額された。さらに6月6日に開かれた将棋連盟総会では、白玲を5期獲得すれば、フリークラス編入の形で棋士になれる議案が上程され、賛成多数によって可決された。それらを受けて注目されている白玲戦は、女流棋界の二強である西山朋佳白玲(女流王将を含めて二冠=30)と福間香奈女流六冠(清麗・女王・女流王座・女流名人・女流王位・倉敷藤花=33)が対戦した。初の女性棋士誕生や女流棋界の勢力図に関わる大勝負を、田丸昇九段が解説する(肩書、段位などは初出以外省略)。 白玲戦の価値に見合った将棋を ヒューリック杯第5期白玲戦七番勝負第1局は、8月30日に東京都港区「グランドニッコー東京 台場」で開幕した。前夜祭で関係者、対局者は以下のように挨拶をした。 「棋譜を並べるのも楽しい実力伯仲
仙台育英と沖縄尚学がぶつかる3回戦の前日、私は仙台育英が練習をしていた豊中ローズ球場にいた。仙台育英の監督、須江航にどうしても聞きたいことがあったからだ。 記者の声「いい試合をしても広陵の記事に…」 その日は8月16日だった。広陵が出場辞退を決めたのは10日のことである。以降、ネット等では広陵に関する記事の量が一気に増えた。 ある年配の記者がこぼしていた。 ADVERTISEMENT 「どんなにいい試合をしても、広陵の記事に呑まれてしまう」 同感だった。 たとえば10年後、2025年は広陵が辞退した年として記憶されるのは少しさみしいなと思った。 こんなときこそ、広陵の辞退を上回る物語を期待した。 ただし、関係者の口は重かった。全国制覇の経験もある元監督は「広陵のことはなかなか話せないですよね」と言った。すでに定年退職していて、それなりの実績がある人でさえこうなのだ。 現役監督、ましてや甲子
沖縄県勢として15年ぶりとなる夏の甲子園決勝進出を決めた沖縄尚学。強さの要因はどこにあるのか。2009年、比嘉公也監督を取材したSports Graphic Number736号(同年9月3日売)『沖縄尚学 心をつないだノート』を特別に無料公開する。《全2回の前編/後編に続く》※表記などはすべて初出時のママ ◇ ◇ ◇ 3年前の不祥事がきっかけだった。野球部内で起きた暴力事件。監督就任2カ月目、25歳の比嘉公也にとって大きすぎる試練だった。なぜ起きてしまったのか、どうしたら部員達の心の声を聞くことができるのか――。悩み抜いた末に出した答えがノートだった。2008年春、野球部は見事立ち直り2度目の全国制覇を成し遂げる。それから1年半。監督と選手の心をつないだノートを訪ねた。
プロ棋界の根幹となっているのが「順位戦」制度である。本来は名人戦の予選リーグに当たるが、ほかのタイトル戦との垣根を越えて、棋戦への出場基準、棋士の昇段、対局料、棋士生命などで、大きな影響力を及ぼしている。戦後まもない頃に創設された背景、昇級・降級規定の移り変わり、順位戦で連続昇級して躍進した若手精鋭、C級2組降級にともなう引退、奨励会の四段昇段規定、閉会が午前4時に延びた1974年の将棋連盟総会などについて、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書、年齢はいずれも当時/全2回の1回目】 “実力本位の制度”導入は戦後まもない時期だった 終戦からまもない1945(昭和20)年11月。応召徴用や疎開で国内外に散らばっていた棋士たちが集まり、東京・目黒の将棋大成会(日本将棋連盟の前身)仮本部で臨時総会を開いた。 将棋界の再興を図る趣旨の席上で、時の第一人者の木村義雄名人(当時40)が重大なことを提案した
12月13日のA級順位戦(渡辺明九段−千田翔太八段)の対局で、渡辺九段が夕食休憩後に千田八段に不戦敗を申し出た。膝の負傷の影響で対局の続行が不可能になったという。きわめて珍しい事態だった。それに至った経緯について、渡辺が自身のSNSで配信した文言などを基にして説明する。また、新将棋会館での椅子対局、足の不具合で引退したある大物棋士などについて田丸昇九段が解説する。(※棋士の肩書はいずれも当時) 大きな原因の1つは「正座」だった 渡辺明九段(40)と千田翔太八段(30)が対戦した、A級順位戦6回戦の対局が12月13日に将棋会館の特別対局室で行われた。通常は畳に置かれた座布団に座っての対局であるが――当日は、中央のテーブル上に平たい盤が置かれ、両対局者に椅子が用意された。観戦記者、記録係らも椅子に着席した。これは、膝の具合が良くない渡辺九段が事前に申請して許可されたものだ。実は12月6日の竜王
春夏通じて甲子園初出場となる豊橋中央。高校野球の激戦区として知られ、173チームが熱戦を繰り広げた愛知大会で、豊橋勢として74年ぶりの甲子園出場を果たした。 「決勝で敗れた相手に…」吹奏楽部が応援サポート 同校は吹奏楽部が3人のため野球応援が難しく、愛知大会は野球部の声だけという応援が続いた。甲子園初戦となる日大三戦も、自分たちの声でアルプススタンドからエールを送るつもりだったが……まさかの助っ人が駆けつけることが急きょ決定。その助っ人こそ、愛知大会決勝で破った相手校、東邦である。 東邦のマーチングバンドは人気が高い。「戦闘開始!」の勇ましい掛け声から始まる湘南乃風の「SHOWTIME」(通称「戦闘開始」)が名物応援で、同校に憧れて応援に取り入れる野球部も全国に多数ある。 ADVERTISEMENT そもそも、甲子園出場をかけた県大会決勝で敗れた相手の吹奏楽部が甲子園に駆けつけるとは、かな
全国レベルの強豪校がなぜ…勝てなくなった沖縄水産 あの簡潔なロゴが甲子園のグラウンドを駆け回っていたのが、やけに懐かしく感じる。 白地に漢字二文字の「沖水」――このユニフォームが沖縄県内の野球少年たちにとって眩しく見えたのは、四半世紀前までだろうか。 沖縄県立沖縄水産高等学校は、春3回、夏9回の甲子園出場歴を誇る強豪校だった。1984年から88年までは5年連続で夏の甲子園に出場し、90年夏、91年夏は2年連続で準優勝。上原晃(元中日)、平良幸一(元西武)、大野倫(元巨人)、新垣渚(元ソフトバンク)など幾多のプロ野球選手を輩出し「沖縄高校野球界に沖水あり」と謳われてきたが、98年夏の甲子園に出場して以降、27年もの間、聖地から遠ざかっている。 ADVERTISEMENT
野球 高校野球 「学力最下位のヤンキー校」から激変…“甲子園から消えた名門公立校”沖縄水産に復活の兆し「文武両道で何が悪い。バカにするな」熱血監督たちの挑戦
2007年、65歳で亡くなった名将・栽弘義。その剛腕とカリスマで公立高校の沖縄水産を全国レベルの強豪へと引き上げたが、苛烈な指導方針は同時に多くの批判も浴びた。そして栽亡きあとの沖縄水産の凋落は、野球部のみならず学校全体にも及び……。荒れ果てた校内に崩壊した秩序、そして野球部で起きた横領事件。校内の健全化に尽力した元監督が、「終わりかけた沖縄水産」の真実を証言した。(全5回の4回目/#1、#2、#3、#5へ) 「賛否両論の名将」栽弘義65歳の最期 監督の栽弘義が「沖水史上最強」と考えていた1998年の沖縄水産は、春夏ともに甲子園1回戦で敗れた。一旦は落ち込んだ栽だったが、すぐさま体に鞭打って奮起し、2000年、02年、04年と沖縄県大会決勝まで駒を進めている。だが、いずれもあと一歩のところで敗退。03年世代のキャッチャーで4番を打った照屋信博(現シンバネットワークアーマンズベースボールクラ
監督室で“深夜の密会”「女性を連れ込んで…」 スパルタの鬼と化した沖縄水産野球部監督の栽弘義は、気の抜けたミスをした選手に容赦なく鉄拳制裁を加えた。「また栽先生に殴られた」と選手たちは頬を真っ赤にはらしながら仲間に言う。だが、栽に殴られることは期待の表れであり、どうでもいい選手は殴られない。言うまでもなく現代では許されない指導法だが、栽の拳は期待値を示すバロメーターでもあった。 栽は体育教員であったが、年度の初めだけ授業を行い、後は自習という形で授業に出ず、その間ずっと野球の研究に没頭していたという。たまに学校で栽の姿を見つけると、選手たちが「おい、栽先生がいたぞ」とまるでラッキーアイテムを探し当てたかのような反応をする。それほど、校舎内で栽を見かける機会は少なかった。 豊見城時代は精神力を鍛えるためとして鶏の首を切り落とさせたり、下級生と上級生をボクシングで対決させたり、センバツの寒さ対
野球 高校野球 「てめえら、舐めてると殺すぞ!」甲子園常連校で壮絶な上級生の暴力「寮生活はまるで監獄」…高校野球「消えた名門校」沖縄水産“80年代の悪しき風習”
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