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新しいカレーの歴史 下: カレー、シチュー、ハヤシライス、肉じゃがの日本近代史 www.amazon.co.jp 発売を記念し、冒頭部分「捏造された海軍カレー伝説」を無料公開します。 1.捏造された海軍カレー伝説 カレーは、いかにして日本へと伝わったのか。 明治時代初期に日本海軍がカレーを導入し、海軍経由で日本に広がったという「海軍カレー伝説」が、現在日本で定説化しつつある。この海軍カレー伝説、Begin Japanology、JAPAN DELISHといったNHKの英語放送等を通じて海外にも知れ渡り、英語圏におけるネット情報にも反映されるようになっている。 ところがこの海軍カレー伝説、1999年以降に広まった、比較的新しい伝説なのだ。 読売、朝日、日経、毎日、産経といった全国紙のデータベースを「海軍 カレー」で検索しても、海軍経由で日本にカレーが広まったという記事は、戦前から1998年に
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。 『新しいカレーの歴史 上』冒頭部分無料公開 その3です。 3.アングロインディアンとカレー粉 インドからイギリスにカレー粉がもたらされた18世紀後半は、イギリスがインドを半植民地化していった時期に当たる。 当初貿易会社であったイギリスの東インド会社は、1757年の「プラッシーの戦い」以降、「会社」とは名ばかりの、半植民地化したインドを統治するための軍事・行政組織へと変貌し、巨大化していく。 “the numbers of British soldiers in India increased from a few hundred in the 1740S to 18,000 by 1790” “1740年代には数百人しかいなかったインドのイギリス兵は、1790年までに18,000人に増加した”
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。 『新しいカレーの歴史 上』冒頭部分無料公開 その2です。 第一章 謎の幻視と『美味しんぼ』から始まった、間違いだらけのカレー史研究2.謎の幻視と『美味しんぼ』から始まった、間違いだらけのカレー史研究 ヘースティングズ総督がイギリスに初めてカレーをもたらした、C&Bが初めてカレー粉を商品化したといった日本人だけが騙されている嘘情報は、1989年に出版された新書版・森枝卓士『カレーライスと日本人』によって提唱された(ただしヘースティングズ伝承説は2015年の文庫化の際に撤回)。 そして翌年1990年に出版された当時の国民的人気マンガ『美味しんぼ』第24巻にこの本が取り上げられたことで、嘘情報が日本全体に拡散され、定着してしまったのである。 『美味しんぼ』第24巻には森枝本人が登場し、マンガの登場人物
新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。 それでは『新しいカレーの歴史 上』、冒頭部分をお楽しみください。 第一章 謎の幻視と『美味しんぼ』から始まった、間違いだらけのカレー史研究1.ガラパゴス・デマが跋扈する日本のカレー史研究 ・イギリスに初めてカレーをもたらしたのは、初代インド総督ヘースティングズ ・初めてカレー粉を商品化したのは、イギリスの会社C&B これらの史実は、カレーの歴史に関する日本語の書籍において繰り返し述べられてきた、ありふれた史実である。カレーの歴史に少しでも興味あるものならば、これらの史実は誰でも知っていることだろう。 ところが、これらの史実が載っていないカレー史の書籍がある。リジー・コリンガムの『インドカレー伝』と、コリーン・テイラー・センの『カレーの歴史』だ。 この二冊だけではない。英語圏で出版されたカレー史の
一ヶ月前に公開した東洋経済オンライン記事、補足するのを忘れていました。 19世紀の三都(京、大坂、江戸)では、麦飯にとろろやだし汁をかけて食べていました。しかも農村では質素な食事であった麦飯が、三都では贅沢品だったのです。 なぜ三都では、とろろやだし汁をかけた麦飯を贅沢品として食べていたのか、その理由について書いた記事です。 その背景には、三都の人々は貧しい人も富める人も「白飯」を常食としていた、という事情があります。 それでは三都では「いつ」「なぜ」白飯が標準食となったのでしょうか。この点について補足説明したいと思います。 1.いつ三都で白米食が普及したのか白米食が普及すると、糠に含まれていたビタミンB1の摂取が不足し脚気患者が増えます。麦飯が健康(養生)によいという考えが江戸時代に広まった背景には、この脚気の存在があったのでしょう。 江戸における脚気のことを「江戸患い」といいました。1
記事中で重要な位置づけにある「一膳飯」という言葉ですが、「一膳飯」には3つの異なる意味があり、混乱を招く原因となっています。 現在ネットで検索すると、3つの意味のうち「2.枕飯としての一膳飯」が主にヒットしますが、記事中の一膳飯はこれとは異なる「1.デタチの膳としての一膳飯」ですので、注意が必要です。 1.デタチの膳としての一膳飯葬式の際に、参加している近親者(生者)が死者とのお別れの際に食べる一膳の飯のことをいいます。死者にお供えするのは2.の枕飯としての一膳飯であり、同じ言葉「一膳飯」でも意味が異なります。 両者とも葬式と関連するためこの2つは混同されがちですが、食事の際には必ずおかわりをしなければならないという一膳飯のタブーに関連するのは「1.デタチの膳としての一膳飯」です。 文中に引用した民俗学者瀬川清子の説明です。 瀬川清子『食生活の歴史』お読みになればわかるとおり、一膳飯のタブ
かつてアメリカの国民食であったハンバーグ・ステーキとホットドッグ。しかしながら現在では、その地位をハンバーガーとピザにゆずってしまいました。 ハンバーグ・ステーキからハンバーガーへ、ホットドッグからピザへの主役交代は、1980年代以降に起こった現象と思われます。 1968年から77年にかけて、アメリカの食生活と健康問題を検討する上院特別委員会United States Senate Select Committee on Nutrition and Human Needsが開かれました。 委員会が当初問題としたのは、貧しい人々の不十分な栄養摂取問題でしたが、1970年代後半になるとむしろ、過剰な栄養摂取による健康問題に焦点が当たるようになります。肥満による慢性疾患が問題となったのです。 この上院特別委員会の報告は、主導した上院議員マクガバンにちなんで、マクガバン・レポートという名で日本で有
日本の国民的洋食ハンバーグは、アメリカにその起源があります。アメリカにおいてもかつては、国民食といえるほどにハンバーグ・ステーキが愛されていたのです。 カメラマンの名取洋之助は、1936年にフォーチュン誌の企画でアメリカ横断撮影旅行に挑みます。その道中の食事は“普段はだいたいハンバーグ・ステーキかホットドッグ”というものでした(『アサヒカメラ』1950年9月号所収「アメリカ撮影旅行の思い出」名取洋之助)。 雑誌『主婦と生活』1950年9月号には、ハンバーグ・ステーキを頻繁に食べていたころのニューヨーク食事情がレポートされています。 “ニューヨークの人達は、今とてもハンバーグがお好き。例の挽肉のおだんごを、ジュッと燒いたもの” 「ほんとにアメリカ不思議なお国(その六)」 外交官の妻としてアメリカ滞在経験のある料理研究家・飯田深雪は、1960年の『世界の家庭料理 5』において、当時アメリカで人
池波正太郎も、東京の下町洋食の代表例として、ハンバーグではなくメンチボールをあげています。 池波正太郎『むかしの味』池波正太郎が下町洋食の代表として例示したチキンライスは、カレーライスとともにイギリスから渡来した料理。 パン粉揚げのカツレツもイギリス料理。ポテトコロッケも、元々はフランス料理ですが、イギリス経由で渡来した料理です(なのでウスターソースをかける)。 詳しい理由については『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』を参照していただきたいのですが、日本においてまず普及した西洋料理は、イギリス料理だったのです。 ということは「メンチボール」もやはりイギリスからきた料理、と考えるべきかと思います。メンチはmince、ボールはballという英語を語源としていますし。 実際の所、19世紀のイギリス都市部の中流家庭料理においては、挽肉をボール状にして食べることが習慣化していました。ただし、名前
新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その6 「第二章 カツレツの登場と普及」(冒頭部分) (無料公開の先頭はこちらから→) 新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。 1.『西洋料理指南』の豕(ブタ)ノ油煮明治5年に出版された『西洋料理指南 下』(敬学堂主人)の「小犢ノ油煮」。 『西洋料理指南 下』 敬学堂主人 (国会図書館蔵)右下に半円形の骨付き肉の挿絵がある。この肉の形が非常に重要(著者がわざわざ挿絵を入れた理由も、この形が重要であるため)なので、記憶しておいていただきたい。 小犢ノ油煮は、この骨付き肉の骨を取り、小麦粉、卵黄、パン粉の衣をつけて牛脂で揚げた料理。現在の日本で言うところの仔牛のカツレツである。そして同様の料理に、「羊ノ油煮」と「豕(ブタ)ノ油煮」がある。 つまりこの「豕(ブタ)ノ油煮」こそが、ポークカツレツの資料上の初出である。 さて、現
新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その5「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(後編) 新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。 (無料公開その1「序」はこちら→) (無料公開その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスターはこちら→) (無料公開その3「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」2.煉瓦亭をめぐる証言の不可解さはこちら→) (無料公開その4「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(前編)はこちら→) 四代目木田明利の代になって、煉瓦亭のポークカツレツ発明話の信用は地に落ちた。というのも明利が、父である三代目木田孝一のポークカツレツ発明話の筋書きを、大きく改変してしまったからだ。 なぜ木田明利は、改変がばれて信用を無くすかもしれないと
新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その3「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」2.煉瓦亭をめぐる証言の不可解さ 新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。 (無料公開その1「序」はこちら→) (無料公開その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスターはこちら→) ポークカツレツ、チキンカツレツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツ、ハヤシライス、オムライス、チキンライス。これだけ多くのメニューを発明をしているにも関わらず、煉瓦亭が何かを発明したという第三者の証言や戦前の資料は、まったくといってよいほど存在しない。 それどころか、煉瓦亭がフランス料理を出していたという証言すら存在しない。煉瓦亭は一般的に、とんかつで有名なとんかつ屋として認識されていたのである。 “この煉瓦亭も銀座にとつては思ひ出の深い名で、ここは昔から
新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスター 新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。 (無料公開その1「序」はこちら→) 銀座を南北に貫く目抜き通り、銀座通りを一本西に入った静かな路地、銀座ガス灯通りに、煉瓦亭という名の老舗西洋料理店がある。 とんかつの原型たるポークカツレツは、この煉瓦亭で誕生したというのが、現時点(2022年)において広く信じられている「定説」である。 四代目店主木田明利の妻、木田和子の著書『煉瓦亭いまむかし』によると、明治28年6月16日に山本音次郎というコックが創業したフランス料理店が、そもそもの煉瓦亭のはじまり。 ところが開店して2~3年たった頃、山本音次郎は体調不良により引退。その後、山本の縁者であった木田元次郎が二代目として店を引き継いだ。 この木田元次郎の
新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。 新刊ではカツレツ、とんかつ、魚のフライ、コロッケの様々な謎を解き明かすとともに、嘘・デタラメだらけの日本西洋料理近代史を、膨大な資料をもとにゼロから書き直します。 それでは『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』、冒頭部分をお楽しみください。 1853年7月8日、黒船来航。1858年7月29日に日米修好通商条約が結ばれ、翌年横浜が開港することとなる。 外国人を迎えるにあたってまず日本人がしたこと。それは遊女街すなわち遊郭の設置であった。 日本各地から横浜に遊女を集めるとともに、饗応の場(揚屋)において西洋料理も提供されることとなり、メニュー表「横浜揚屋料理献立」が作成された。 (「横濱揚屋料理献立」 画像提供:京都の古書店・青羽古書店様)雑誌『食道楽 昭和6年5月号』記事「横濱開港當時の西洋料理」(高岸拓川)に、横浜開港の年、185
(2021年5月25日 原本改訂につき更新) kindle版『お好み焼きの戦前史 第二版』は、その旧版をもとにした紙の書籍版『お好み焼きの物語』と比較し、様々な点で新しくなっています。 特にその一部分である「来々軒と支那そばの普及」については、ラーメンの起源に迫るべく大量に資料を追加し、全面更改を行っています。 もともとはお好み焼きの歴史に関する本であり、お好み焼きの一種であるソース焼きそばの歴史を語る上で必要最低限の、ラーメンの歴史の一部分に触れただけに過ぎませんでした。 ところが、世にあふれるラーメンの歴史本が、貧弱な資料をベースにしたでたらめな推論に満ちているため、次第に(反論を込めた)内容改訂を重ねるうちに、ついにお好み焼きとは縁遠い「ラーメン起源の章 」になってしまいました。 それでは、ラーメンの起源に迫る「来々軒と支那そばの普及」の冒頭部分をお楽しみください。(記事トップの画像
後編である本書が扱う串かつは、牛丼や焼鳥とは正反対の歴史をたどって生まれた食べ物である。 牛丼や焼鳥は、下層階級の卑しい食べ物として生まれ、その後牛丼は大正時代から、焼鳥は大正時代後半から上中流階級の人々に受け入れられていった。いわば、底辺から成り上がっていった食べ物である。 一方の串かつは、西洋料理の大衆化によって生まれた食べ物。 明治時代のはじめに上流階級の人々が食べていた高級西洋料理店のフルコース料理は、最終的に労働者が屋台でコップ酒片手に立ち食いする串かつにまで、大衆化していった。いわば、西洋料理の大衆化が行き着いた究極の姿が、串かつなのである。 串かつの誕生の歴史は、西洋料理の大衆化の歴史そのものだ。なので本書において串かつそのものに割かれたページはさほど多くない。本書のページの大部分は、西洋料理が大衆化していくステップと、その社会背景の説明に割り当てられることとなる。 従って本
「ホルモン焼き」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明 | 連載 | 考える人 | 新潮社 「このことばはどうして生まれたのだろう?」 そんな疑問がふと頭をよぎったことはありませんか。膨大な日本語と日々向き合う国語 kangaeruhito.jp 大変素晴らしい内容です。 ホルモン=ほうるもん説は、『モノになる動物のからだ』(中島久恵)、『焼肉の誕生』(佐々木道雄)、そして拙著『焼鳥の戦前史』において、誤りであることが証明されてきました。 しかしながら、ホルモン=ほうるもん説はいまだに根強く流れています。こういった形で、いわば日本語のプロフェッショナルである国語辞典編纂者の飯間浩明さんから批判的検討が加えられたことは、私にとって頼もしいかぎりです。 さて、『分け入っても分け入っても日本語』「ホルモン焼き」の内容についてですが、食文化史研究の観点からすると若干気になる表現がありま
近代の食文化史を研究しています https://amzn.to/2YvXK9s 『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』『お好み焼きの戦前史』『牛丼の戦前史』『焼鳥の戦前史』等出版中です。twitter https://twitter.com/ksk18681912
(この記事は2020年12月22日-25日にかけてのtwitter連載を編集したものです) 新横浜ラーメン博物館で、来々軒の「らうめん(青竹打ち)」を食べました。(先頭の写真) 伝説の浅草の店、来々軒の110年前の味を復刻するというプロジェクトから生まれた一杯。私好みの味で大変美味しゅうございました。 復刻には様々な苦労があったことでしょうし、実に意義深い事業だと思います。 ですがこのラ博の「らうめん」、昭和初期の復刻版としては正しいのでしょうが、「110年前の来々軒のらうめん」、つまり明治時代末から大正時代のらうめんとは全く異なっている可能性があります。 ニュースリリースによると、ラ博来々軒のらうめんは浅草来々軒三代目の故・尾崎一郎さんら、親族の方の証言をもとに復刻されたそうです。尾崎一郎さんの証言は、『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子)にも収録されています。 ”来々軒のシナそばですか?
それでは、『焼鳥の戦前史』の冒頭部分をお楽しみください。 第一章 廃棄物と食品偽装から生まれた焼鳥 1.詩人、焼鳥屋になる 詩人、草野心平は途方に暮れていた。 中国の嶺南大学留学中に詩に目覚めた草野は、日本語教師の職のかたわら詩作活動を行っていたが、中国における排日運動が高まり帰国を余儀なくされる。 その後職や住所を転々と変えながら同人活動を中心に詩作を継続。結婚もし、子供もできたが、そこに世界大恐慌が発生。当時としては少数派のエリートである大学卒の人間さえも就職できず、小津安二郎監督が就職難をモチーフにした映画「大学は出たけれど」を撮る時代になった。 やることといえば質屋に通うことと、金策に駆け回る日々。そんなあてのない、途方に暮れる生活を送っていたある日、2歳の息子とともに散歩していると、空き地の中に放置されている屋台が目に入った。 ”その上の方がほこりにまみれ下の方は泥がはね上ってゐ
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